小説C

□ハイドの消滅
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「フェイ、おいで」
 手招きをされてフェイは目を上げた。本の壁に囲まれている図書室は静かで、たった一つ開いた窓から青白く月が差していた。サルの背が逆光に陰っている。本を仕舞おうと、列に空いた一冊分の空白に背伸びをしかけたとき、手元の重量がふわりと浮いて、音もなく収まった。
「名残惜しいかい?」
 その声に振り向いても表情は見えなかった。窓を背に立つサルのゴーグルが、わずかに光を反射した。フェイは、躊躇わなかった。
「それほど」
「そうかい」
 期待する心は無かった。一度捨てられ、それを拾い上げられた時でさえ、ひとたび沈んだ心は浮き上がることなく、諦観していた。
『親というものは、子にとって全てである。親を通して子は価値観を広げ、外界の光を浴び、やがて一人で歩くようになるまで、その扉は閉じることはない。』そんなことあるものか。先程読んだばかりの一節が頭に浮き上がってきて、フェイは唇を結んだ。そんなことはあってはならない。そうでなければ否定されるものが数え切れないほどある。閉じた扉の影の前でいつまでも膝を抱えている、自分のことを顧みてはいけない。
 通路を真っ直ぐ進んで、暗がりで篭もる足音の反響を無視しながら、一つだけはっきりと見える正面の窓越しに、大きな月が雲に隠れる姿を見た。サルの白い髪の線がいくつか、それでもなお、光っていた。ピアノ線が瞬くように白く、二人を包む暗闇の中で、光の筋が垂れていた。
 サルの足元に膝をつくと息遣いがわかった。身じろぎしていたわけではないけれど、彼の、生きている挙動が感じられた。フェイは息を押し殺すように身を固くした。生の生々しさが苦しかった。サルが息を吸い、吐く。熱を漏らす。フェイの体は、冷たかった。
「僕は」
 サルが言葉を区切るのは珍しかった。サルの言葉はいつも虚飾なく、それだけに質量を持って、聞く者を威圧した。サルが今、こうして息を注ぐあいだ、言葉と言葉の隙間のほんの一瞬、それだけの沈黙が、だからこそ、確かにフェイを呼んでいた。
 しかしフェイは緩慢に面を上げた。フェイの正面、サルの背後から広がる月光は、サルの表情を隠していたけれど、眼球の粘液にわずかに灯り、影になったサルの顔つきの中で、目だけに、光が宿っていた。
「寂しいよ」
 フェイは目をかすかに見開いたまま、サルの手が伸ばされ、その手のひらが視界を覆うように広げられるのを見た。「手袋を外してもらえるかな」フェイは従う。「ありがとう」 少し顎を引くと、間近の指先に緩く焦点が合った。
「……始めるよ」
 フェイは承知の意を込めて、目を閉じ、俯いた。かざされていた指先が、額に軽く触れてきたのがわかった。それは始め、撫でるようにしなやかだったが、程なく強ばり力が入って、何かが、流れ込んできた。頭の中を通り、触れるものをさらって、しまいにはサルの指へと戻っていく。閉じた瞼を淡い光が灯している。フェイは、瞼をさらにきつくした。
 頭の中が洗い流されていく感覚に、歯噛みをしてじっと耐え、それでもこらえきれず、フェイは床に手をついた。人生を遡っていく。遡ったところから消えていく。流れ入ってくる光がいつの間にか多くなっていて、けれどフェイは苦しいあまりそれにも気付かない。食いしばるようにかたく閉じていた唇が一度喘ぐように開き、声は出さずに、荒く息をした。痛みの波に合わせて呼吸を殺し、弾けるように吸い込む。サルが一度瞼を下げ、まもなくやってくる終わりを察知すると、呼応するように力を少し弱めた。手のひらから漏れる光が揺らぐのに従って、髪や服の裾がゆらめいていた。
 惰性にも似た速度でやがて光が収束すると、フェイは崩れるように倒れ込んだ。サルは息をひとつだけ吐くと、顔を上げて、落ちて床に散らばった本を、空っぽになった本棚を、見渡した。フェイが無意識に放った力の影響だった。
「君は擬態するのが上手い」
 足元に崩れ落ちたフェイの残骸に、サルは笑いかける。その笑みは、慢性的なものだったが。フェイの振る舞いの、当たり障りない、けれど奥底で残る冷たさを、サルは知っていた。本人すら気づき得ないところで他人に行なってしまうそれは、そのまま自分自身との向き合い方でもあるので、このままではフェイは永遠に癒されないのだろうとサルは思っていた。それはフェイに限った話でもないし、ほかの数人だけに限った話でもない。ここにたむろするすべての子供が、そういった面を持っているのだろうとどこかで分かっている。だからこそ集っているのだ。
 ではどうしてフェイを選んだのか?べつに、フェイじゃなくてもよかったはずだ。記憶を消すだけなら誰でも。悲しみの色を取り除いて、そこに少しサッカーの楽しさを垂らしてやればいい。ここの誰だって元々それを知っていたはずだから。しかし。サルは、もしもを頭の中で巡らせる。
「たとえば、君を拾ったのが僕じゃなかったら」
 そうだったなら、フェイは復讐なんて忘れてしまったかもしれない。憎しみは清められていたかもしれない。たとえば、あのときフェイの隣にいたのが松風天馬だったとしたら。
 裏切られたくない、と、その類の恐れを、初めてサルは抱いた。だからこそ自分を裏切れるとしたらフェイしかいないのだ。そうしてそうなったとき、フェイを切って捨てる事がサルの宿命なのかもしれなかった。
「君は必ず戻ってくる」
 サルは、それを待っている。 
 意識を取り戻しつつあるフェイが、初めてぴくりと身じろいだ。サルは一歩下がり、光が入らない壁の奥へと後ずさる。フェイの瞼が薄く開き、焦点の合わない目が数回の瞬きを経て像をむすぶ。はっきりしない意識で手足に力を込め、ふらつきながらも立ち上がると、目を覆い、首を振った。不安げな顔で部屋の中に視線を巡らせている。
「本が……」
 散乱する本の床から、フェイが怯えた様子で後ずさった。君がやったのにね、とサルは半ば可笑しくなりながら、近付いてくるフェイの背中に、くすりと忍び笑いを零した。
「誰かいるの」
 フェイが足を止めて、警戒心あらわに背後を向く。サルは夜の闇に隠れて、壁にもたれて腕を組んだまま、口角をつり上げた。
「可哀想に。迷い込んだのかい?」
 これでフェイはサルを疑いきれない。フェイは疑わしいだけでは罰しない。疑心を滲ませつつもフェイが口を開いた。「……きみは」
「フェイ・ルーン」
「フェイ?」
「僕の名前じゃない」
 サルは片手をひらりと振ってそのまま、フェイに指を差し向ける。「君の名前さ」その指先は、手袋をしていなかった。
「僕が……フェイ」
「そうさ」
 その響きを口の中で転がすうち、やっと今自分が何を食べているかが分かったときのような口調で、細かく頷きながらフェイが呟く。「僕はフェイ・ルーン」
「フェイ、君はサッカーを救わなければいけない」
「サッカーを?」
「そう。君にしかできない」
「どうやって」
「アルノ博士という人物に協力を仰ぐといい。彼がすべてを教えてくれる」
 ここを出て、まっすぐ進むと、森に出る。森に入っても、ひたすらまっすぐ、月を目印にして。
 フェイは黙って聞いていた。
「君は一言だけ覚えていけばいい。まっすぐ。月を追いかけていけば、森を抜けて、街を見下ろせる崖に出られるだろう」
 フェイは頷いて、「君は行かないの」と尋ねた。
「僕は行けない。ほら、早く、フェイ。月が沈む前に。早く!」
「……まっすぐ」
「まっすぐ」
 フェイが書斎の出口を目指して走り始める。散らかった本を踏まないように、所々飛び跳ねるように走りながら、それでも振り向いて「また会いに来るよ」とさけんだ。サルは何も言わずに見送って、その扉が、フェイの姿を隠すのに従った。
 知っているとも。
 廊下を走っていく軽やかな足音が聞こえなくなって、サルは壁に預けていた背中を起こし、指を鳴らした。散らばっていた本が全て浮き上がって、元通りの位置へとひとりでに戻って行った。窓の外は満月だった。サルは残っていたもう片方の手袋も外してしまうと、机の上に伏せ、図書室を出ていった。扉は閉めなかった。

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