隙ありっ

□隙ありっ
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  漆黒の追跡者


「――曇っててよく見えないんじゃない?」

「!」



 コナン君が先ほどまで水谷さんの写真を表示していた携帯を閉じ…驚いたように振り返った水谷さん本人を見上げて言った。



「2人が好きだった、北斗七星と北極星…。」

「…君は?」

「毛利探偵の助手なんだ。…ずっと水谷さんを探してた。」

「…そっか。」



 覇気のない様子で答え、ワイングラスにワインを注ぐ水谷さん。
 そしてそれを見つめるだけのコナン君を柱の陰で見守る。
 アイリッシュに正面から迎え撃って勝てる勝算は正直ない。
 だからこうして隙を伺うために隠れているのだ。



「でもね、僕には見えるよ。北斗七星と北極星の位置だけは…どんなに空が曇っていても。」

「…ねえ、水谷さんが周囲の人たちに言っていた許せない8人目…最後のターゲットって、水谷さんのことだよね?」

「え、」

「そのワインを飲んだら…自殺しちゃうつもりなんでしょ?」



 水谷さんが沈黙を落とす。
 そしてワインをまた一口飲んで、自嘲を浮かべた。



「うん。そうだよ。止めても無駄さ…ここを生き延びても僕は死刑だ。」

「死刑にはならないよ。…だって水谷さん、誰も殺してないでしょ?」



 そこで初めて水谷さんの表情が崩れた。
 驚きを隠せない様子で、その手に持つワイングラスがかすかに揺れる。



「どうしても納得できなかったんだ…本上 なな子さんとの思い出がたくさん詰まった北斗七星と北極星の位置を水谷さんが犯行現場に選んだのが。」

「…」

「だから思った。これはきっと、第三者が水谷さんに罪を擦り付けるために決めた犯行現場の位置取りなんだって。そしてその真犯人はなな子さんの…」



 カツ、と靴のかかとが床を打つ音がする。
 水谷さんがその音を聞いて振り返り、目を見開いた。



「お、お義兄さん…」

「やっぱりここにきて良かった…。毛利探偵の使いが俺の元に話を聞きに来た時点で…何か悪い予感がしていたんだ。」

「本上さん…ここまできたら、水谷さんに本当のことを伝えたら?」

「本当のこと…?」



 水谷さんが本上 なな子さんの兄、本上 和樹 (ほんじょう かずき) さんを見上げる。
 しかし彼は何も言おうとはせず、コナン君が両手をポケットに突っ込んで言った。



「なな子さんの一周忌に花束が7つ匿名で送られてきたって、本上さん言ってたよね。」

「…花束?」

「うん。1人や2人なら罪の意識だとしても説明がつく。…でも7人全員が贈ったとなると、それは確実に感謝の意を示している。」



 もちろん、なな子さんへの感謝の意だよ。
 あの時…火事になったあの日、エレベータを譲ってくれてありがとう。ってね。



「そうだ…ボウヤの言うとおりだ。なな子は優しい子だった…とても。…それでもな、なな子がやつらの身代わりになって死んだことに変わりはない…! そうだろう⁉」

「…っ、」

「…水谷さん。良く考えてみてほしい。」



 コナン君の言葉に水谷さんが片手で前髪をくしゃ、と掴んだ。



「確かになな子さんは彼らの身代わりになって死んだかもしれない。でもね、水谷さんが本上さんの身代わりになって罪を被ることとは、天と地ほどの差があるんだよ。それこそ…空で輝く星と、地面に転がる石ころぐらいにね。」



 沈黙が落ちる。そして水谷さんが髪を掴んでいた手を力なく下ろし…本上さんを見た。



「死ぬのは…止めます。なな子もきっとこんな僕の最期は望んでいない…。」

「何?」



 これも返します。
 そう言って水谷さんが差し出した小さな巾着袋。
 恐らく罪をかぶる際に水谷さんが犯人だとする証拠のために集められた被害者の持ち物。
 …その中に、組織のメモリーカードもきっとある。



「…くそ…舐めやがって…!」

「お義兄さん、自首してください。」

「煩い! お前に何が分かる!? 捕まって堪るか…!!」



 本上さんがポケットからサバイバルナイフを取り出し、それを振りかぶった。
 まずい、コナン君と水谷さんを助けなければ。
 今でも思う。警察官として長く働いた経験が時に私の身体を衝動的に動かす。
 そんな私を、アイリッシュはいつも言っていたっけ。コントロールしろ、って。



「待て!」



 身体が驚くほど瞬時に、ぴたりと止まった。
 この場所に響いた声と、銃声。
 そして床に倒れ込んだ本上さんのうめき声。
 すべてが怖いほど鮮明に耳に流れ込んでくる。



「間に合ったか! 警視庁の松本です!」

「け、警視庁…⁉」

「怪我はありませんか。…署まで来てもらおう…本上 和樹さん。」



 手の甲を銃で撃たれ、蹲る本上さんを立ち上がらせる松本警視正。
 いや…ここに来たのが彼1人だけだということは…きっと彼がアイリッシュ。



「…。」



 コナン君がゆっくりと腕時計型麻酔銃を構え、松本警視正へと標準を合わせる。
 しかし本上さんの腕をつかみ、持ち上げた反動で体が大きく動き、その向こう側に立っていた水谷さんの首元に麻酔針が刺さった。
 途端に眠りに落ちた水谷さんを驚いたように見下ろすアイリッシュが、コナン君をちらりと見て…小さく笑い、ポケットに手を差し入れた本上さんを見下ろし、そのみぞおちに拳を一発。



「ぐっ…」



 一撃で大の大人である本上さんを気絶させ、アイリッシュが軽く右手を左右に振る。
 その様子を見ながら…コナン君が言った。



「やっぱりアンタだったか…アイリッシュ。」

「…ほう、その口ぶりだとバレてたか…。高校生探偵、工藤新一。」

「! (やっぱり…)」



 コナン君がじり、と少し後ずさり口を開く。



「組織には俺のことを報告したのか?」

「いいや? …お前を殺し損ねた…ジンにもまだだ。」

『(なら都合がいい…!)』



 走り出し、アイリッシュの背後から首に腕を回し、全身を使って彼の身体を倒す。
 そして拳銃を持っている右腕を両手で掴んで引き延ばし、身体に足を回した。



「っ⁉」

「遥さん!」



 松本警視正の皮をかぶったアイリッシュと視線が交わる。



『コナン君、その靴でこの男の頭を――、っ⁉』

「甘いな…!」

『っ…』



 やっぱりこの人…アイリッシュは一筋縄ではいかないらしい。
 技が完璧に掛かり切る前に力づくで引きはがされた。



「ふむ、柔道か。やり合うのは久々だ…うちの母国じゃあなじみのない競技なんでね…」

『…。』



 正直…柔道で勝てた試しはない。
 ボクシングでも、勝率は低い。
 だけど正直この状況で選ぶべきは…。



「――ほう、俺に合わせてくれるのか?」



 柔道よりも歴の長い、ボクシング…。
 この人の戦い方は身体にしみついてる。



『(やるしかない…)』

「(っ、この2人の戦いの中で上手く黒凪さんに手を貸すなんて出来そうにねーな…)」



 肌がひりひりするようなこの緊張感…懐かしい。
 思えばあの頃は…この緊張感に毎日のように晒されていた。






















 何もできず、俺はただただ2人の戦いを眺めているしかできなかった。
 2人は互角…いや、やっぱり黒凪さんが劣っているのか、アイリッシュが優位に立っているのが見てとれた。
 でも師弟関係ということもあるのだろう、相手の闘い方を熟知しているからこそまだ彼女は負けてはいない。



『っ、』

「…ふは、久々に楽しいな。」

『っの、』



 黒凪さんの一撃がアイリッシュの頬を掠め、変装用の皮に亀裂が入りかすかにアイリッシュの素顔が見え隠れする。
 しかし彼は依然として楽しそうな笑みを浮かべるだけで…その肩を鳴らし、徐に俺を見た。



「…なるほどな。工藤新一…お前なら黒凪の死も偽造できたことだろう。」

「‼︎」



 息を呑む。
 しかし黒凪さんは打って変わり驚くほどに冷静だった。



『…。』

「お前と闘り合って俺が気づかないとは思ってないだろ…黒凪。」

『…まあ、予想はしていたわ。だからこそ…貴方が工藤くんに手さえ出さなければ放っておくつもりだったのに。』



 アイリッシュが自身の変装を剥ぎ取り、くいと顎で黒凪さんに合図を送った。
 お前も変装を取れということだろう。



「…ま、素直には取らねえか。お前は昔から師匠の言うことなんざ全く――」

『――!』

「聞きやしねえからな。」



 アイリッシュが拳を繰り出し、それをいなしていく黒凪さん。
 ただやはり長時間戦っているせいもあるのか、完全にはいなしきれず髪を掴まれ、黒凪さんもその神崎遥の変装を剥がされた。



「よう黒凪…3年ぶりか?」

『放しなさいよこの…っ、』

「おうおう。相変わらず短気だなぁお前。」


「(くそ…っ、麻酔銃はもう使えねーし…どうすれば…!)」



 以前髪を掴まれた状態で身動きを封じられている黒凪さん。
 こうなってしまっては、女性の黒凪さんがパワーでアイリッシュに勝てるはずもない。
 途端に、コナンの携帯がメッセージの受信を知らせた。
 そのメッセージは外からライフルでタワーを狙っている赤井さんからで…



「(ジンがヘリコプターに乗ってこのタワーに向かってる⁉︎) …黒凪さん! ジンがこっちに…!」

『⁉︎』

「あ?」



 途端にパラパラとヘリコプターの羽音が聞こえ始め、やがてライトがタワーの最上階…俺たちがいるフロアを照らした。



『!』

「チッ…」



 アイリッシュが窓側に背中を向けたことに黒凪さんが怪訝な顔をする。
 まるでジンの視界から彼女を隠すようだったからだろうか…。



「もうここを嗅ぎつけてきたか…抜け目のない野郎だ。」

『ジンの常套手段よ…どうせ、どこかで貴方を監視していたんでしょう…』



 俺の携帯がメッセージの受信をまた知らせる。
 黒凪さんもポケットの辺りに目を向けたから、きっと彼女も誰かからメッセージを受け取ったようだ。



『…アイリッシュ、携帯を確認しても良いかしら。』

「ん? あぁ。」



 まるで当たり前のように力を緩めたアイリッシュにぎょっとする。
 しかし黒凪さんは気にする素振りもなく携帯を開いた。



『…。貴方が管理官になりすましていたことが日本警察にバレたみたいよ。』

「何? …チッ、お前ら仲間がいたのか。」

『そりゃあ仲間ぐらいいるわよ。貴方相手に私1人で来るとでも?』

「…ったく。こうなりゃジンが取る手は1つだな。」



 アイリッシュが黒凪さんから離れ、床に落ちている巾着袋を持ち上げる。
 俺が麻酔銃で水谷さんを誤って眠らせた弾みに彼の手からすり抜け床に落ちていたのだろう。
 そしてアイリッシュは中に入っていたお守りの中からメモリーカードを取り出して…ため息を吐いた。



「さて。どうしたものか…。」



 沈黙が落ちる。
 俺は、その異様な空気に何も言えなかった。




















 ただただ考えていた。
 どうするべきか。



『…』



 このまま彼を…アイリッシュを見殺しにする?
 でもジンから彼を助けて警察に引き渡せば…きっと彼がこれまで犯してきた犯罪を鑑みればきっと死刑か終身刑になる。
 どちらにせよ、もう彼は逃げられない。



『…アイリッシュ、』



 アイリッシュがこちらに目を向けて…それからコナン君を見下ろした。



「ジンを失脚させようと手を出した獲物だったが…かえって自分の首を絞めたか。」

『…あぁ、そういえば…ピスコを始末したのは彼だったわね。』

「…知っていたか。」

『ええ…。彼、貴方の父親代わりだったものね。』



 ああ、と悲しげに言ってアイリッシュが目を伏せる。
 これでもう、ジンの目を掻い潜って工藤新一をあの方に献上することは叶わない。
 そんな彼の言葉に私はなんと言って良いかわからなかった。
 携帯が着信を知らせる。アイリッシュをチラリと見上げて、秀一と通話を繋げた。



『…もしもし』

≪どうするつもりだ?≫

『…分からない。』



 どうすればいいのか、分からないの。
 そうぽつりと呟いた私をコナン君やアイリッシュが見たのが分かった。
 そこで動いたのは――コナン君。



「…アイリッシュ」

「?」

「オメーが俺たちに協力するなら…ジンの手から逃がしてやってもいい。」



 アイリッシュがしばし沈黙し、笑みを浮かべてメモリーカードを持ち上げた。



「これか?」



 コナン君が頷く。



「…フン、いいだろう。親父…ピスコはあの方を崇拝していたが、俺は親父に従ってただけだ。未練はない。…ただし。」



 このメモリーカードは俺が生きてここを出られてからだ。それでいいな。
 アイリッシュの言葉にコナン君が小さく頷き、私の元へきた。



「…黒凪さん、電話借りても良い?」

『…ええ』

「もしもし…、…うん」



 電話で秀一と何やら話すコナン君を横目に、徐にアイリッシュを見上げた。



『…本当に私たちに身を任せるつもりなの?』

「ん?」

『それとも、メモリーカードだけを渡して逃げるつもり?』

「さあな。ただ…生きるか死ぬかのこの状況、」



 ベルモットが惚れた工藤新一に任せてみるのも面白そうだと思ってな。
 そうしてこちらに電話を切ってやってきたコナン君をアイリッシュが見下ろす。



「アイリッシュ…手榴弾か何か持ってねーか?」

「あぁ。」

「よし。じゃあ作戦はこうだ――。」



 コナン君が話す作戦を聞き終えて、アイリッシュが笑みを浮かべた。



「…ライフルでこちらを狙ってるって言うその協力者…本当に信用できるんだろうな?」

「ああ。この世で1番信用できる。」

「ほう…」



 自信に満ちたコナン君の表情に、不思議と不安な気持ちが消えたことに気づいたのは、この時だった。


 
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