小説
□業務日誌 12月24日
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担当の欄にイリーナ、天気の欄に雪、と書き込んでその日の業務日誌担当の人物は一旦手を止めた。
窓の外をちらりと見やると純白の粉雪がエッジの街を美しく染めていた。今年はホワイトクリスマスだ。イルミネーションで縁取られた街並みと降りしきるそれが人々の心に普段とは違う特別な幸福感を運んでいる。イリーナには窓から見える全ての人がこの上なく幸せそうに見えた。少なくとも自分よりは。
もう外は見ない、幸せそうなクリスマスの雰囲気に染まった世界は見ない、と決意して視線を窓から外す。朝からこんなことを何度も繰り返している。きっと30分後にはどうせまた外を見てため息をつくのだろう。窓から外した視界に入ってくるのはいつも通りの赤毛とスキンヘッド。そして空欄の業務日誌だ。
「先輩たち、早く報告書仕上げて下さいよ。日誌に書くことなくなっちゃいます」
イライラした口調でイリーナは先輩たちに詰め寄った。幸せそうなクリスマスの雰囲気にも、溜まった報告書を仕上げる気配も見せない先輩たちにも腹を立てていた。
「イリーナ、ツォンさんがいないからって機嫌悪すぎだぞ、と。仕事なんだから仕方ねえよ」
赤毛の方の先輩ーーレノがいつもの喋り方で呑気に返した。「ち、違います!」とイリーナは叫ぶように言ったがその慌てぶりと赤らんだ頬のせいで説得力はまるでない。
*
事の発端は2週間前のある日のことだった。その日はタークス全員での護衛の任務でジュノンに来ていた。その帰り、久々にタークス御用達のバーでいつも通り横並びに並んで飲んでいたときのレノの発言から全ては始まった。
「世の中はクリスマス一色だってのに俺たちは仕事、仕事、仕事だぞ、と。女の子とデートする暇くらい欲しいもんだ、と」
手元のウイスキーを飲み干し、レノはクリスマス用に飾りつけされた店内を見渡した。
「先輩とクリスマスにデートしてくれる女性なんているんですかぁ?」
べらぼうにお酒に弱いイリーナはまだ一口二口しか飲んでないにも関わらず既にほろ酔いで、つっけんどんにレノに言い返した。
「舐められたもんだな、と……」
呟くようにレノが言ったがレノとイリーナは両端に座っていたためほろ酔いのイリーナの耳までには届かなかった。
「どうかしましたか、主任」
バーに来てようやくルードが口を開いた。主任、と呼ばれたその人物は持っていたワイングラスを弄んでいる。
「クリスマスか……」
ツォンはそれだけ言ってワインを口にした。ツォンという人物とクリスマスという行事があまりにも摩訶不思議な組み合わせで思わずレノは吹き出し、イリーナは身を乗り出し、ルードは咳払いをした。
「ツォンさん、クリスマスは何かご予定……あるんですか!?」
イリーナがずいずいと積極的にツォンに詰め寄った。酒の威力とはすごいもんだとルードは密かに思った。
「いや…….仕事以外には特にないが」
「じゃあ、あの、えっと……」
「飯でも行くか?」
飯、までツォンが言ったところで先を待たずイリーナは「はい!」と返事をした。酔いと照れのせいで顔は真っ赤だった。
「レノとルードはどうだ?」
ツォンが二人に話を振ると二人共首を振り、デートだの予定があるだのと言ってツォンの誘いを断った。無論、イリーナに気を遣った嘘であったが。
*
こうしてイリーナは憧れのツォンとクリスマスイヴという恋人たちの聖夜にデートの約束をすることができた、はずだった。二日前に指名手配中の連続殺人犯の目撃情報が入るまでは。犯人はコスタ・デル・ソルの付近で目撃されたらしく、現在ツォンは犯人を捕まえるべく遥か彼方海を越えて行ってしまったのだ。イリーナは報告書を溜めに溜めているレノとルードの見張りを任され、リゾート地へ旅立つツォンを見送るしかなかった。
その瞬間を思い返しイリーナは再びため息をついた。レノとルードがその度に顔を見合わせ呆れた表情をするがもうそんなのお構いなしだ。
イリーナは眉間に皺を寄せながら壁にかけられた時計を見た。定時まであと2時間。レノとルードが報告書を仕上げてくれれば残業は無しだろう。オフィスにいるときはもっぱらダラけてばかりのレノとそれを咎めもしないルードだが、一度取り掛かれば仕事は早い。ようやくパソコンに向かい始めた先輩たちを尻目にイリーナは安堵した。と、言っても定時で上がれたところで行く当てもないのだが。レイトショーでも見るか、1人で食事にでも行くか、買い物をするかと思案を巡らせたがどこに行っても今日は幸せそうなカップルや家族連れで溢れているだろう。いつもより少し高いワインとチーズを買って1人で晩酌が無難と言ったところだ。ついでに可愛らしいケーキでも買えば完璧だ。完璧な1人ぼっちのクリスマスだ。
仕事後の予定を無理やり埋めたところでオフィスのドアが勢いよく開いた。ワインは赤にしようか白にしようか、などと考えていたイリーナは突然の物音に必要以上に驚いてしまった。タークス失格だ、と内心落胆する。オフィスにいるとどうしても色んな感覚のスイッチが鈍ってしまう。
「随分いいご身分のようだな、タークス諸君」
そう言いながら入ってきたのはルーファウスだ。丸まった背中であくびをしながらパソコンに向かうレノ、サングラスをメガネ拭きで拭いていたルード、そしてその2人を睨みながら空欄の業務日誌を目の前に何もしないイリーナを見ればさすがのルーファウスも皮肉の一つや二つ言いたくもなるだろう。
ルーファウスはそのまま部屋に入り、先程までレノたちがだらけていたソファに腰を降ろした。レノはきちんとパソコンに向かい、ルードはサングラスを掛けなおし、そしてイリーナは業務日誌にようやく手を付けた。
「その怠惰な仕事態度から見るとお前たちは今日は残業か?」
ルーファウスはその息を飲むほどの美しい顔に挑発的な笑みを浮かべてそう問いかけた。目線の先にはイリーナだ。ひぃ、と思わず悲鳴を上げたくなるほどの威圧感にイリーナは冷や汗が額に浮かぶのを感じた。
「えっと、あのその……先輩たちが溜めている報告書が仕上がって……私が業務日誌にそれを書き込んだら今日は終わりです……多分……定時までには……」
しどろもどろにイリーナが取り繕った。先輩たちのせいだ!と内心で毒付く。
その時、白色がフッとこちらに近付いてくるのをイリーナは感じた。社長のスーツの色だ、と感じたときには既にルーファウスが目の前に立っていた。そして社長が目の前にいる、と思ったと同時にルーファウスはイリーナの顎を掴んで自分の方へ顔を向かせた。ルーファウスがぐっと顔を近付けてくる。突然の出来事にイリーナはなす術もなくルーファウスの紺碧の瞳に取り憑かれた。心臓が恐ろしい速さで脈打っている。
「定時5分後に社長室に来い。1分でも遅れるなよ」
それだけ言うと音もなくルーファウスはイリーナから離れ、何事もなかったかのようにオフィスの入り口へと向かった。イリーナは全身の力が抜け、握っていたボールペンがぽとりとテーブルに落ちた。
「お前たちもだ、レノ、ルード」
同じく突然の出来事に狼狽えていたレノたちは声もなくこくんこくんと頷いた。
「ツォンの代わりだ」
それだけ言うと呆気なくルーファウスはオフィスから消えた。残された3人は10秒ほど状況が掴めず呆然としていたが『1分でも遅れるな』とのルーファウスの命令を思い出し猛スピードで仕事をこなした。ツォンの代わり、つまり食事に行こうということだ。さしずめツォンがルーファウスに頼んでいたのだろう、イリーナが落ち込むのは目に見えたいたのだろうから。イリーナは業務日誌に文字を書き込みながらもルーファウスの目の前にまで迫った顔が頭から離れず視界がチカチカしていた。
「優しいな、ツォンさんも、社長も」
見事定時前に仕事を終え、社長室に向かっているときレノがぼそりと言った。ルードがゆっくり頷く。
「私のせい、ですよね」
イリーナはそう言って俯いた。もちろん、一人ぼっちより大分ましだがそれにしたって少し気が重い。主任と社長に気を遣われる部下など世界中探してもなかなかいないはずだ。
「可愛がられている、それだけだ」
「いいじゃねえかよ、社長に迫られて動揺してるイリーナ、面白かったぞ、と!」
「先輩たちだって驚いてたくせに!」
ケラケラと笑うレノに言い返して、そしてイリーナは気付いた。今度は先輩たちに励まされている。全く不甲斐ない部下であり後輩だ、と反省する。
でも。
「私……タークスになれて、幸せ、です」
「はあ?何だ急に」
恋人がいなくても、仕事が多くても、憧れの主任がここにいなくても。
イリーナはクリスマスに誰にも負けないくらいの幸せを感じたのだった。