とある屋敷

□水底に眠れ
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「けほっ……げほげほっ…!かはっ!!うぁ…はっ、」
 地に膝を突いて、口元を手で覆いながら、何度も咳き込んだ。競り上がってきた血を止める術も無く、手の上に何度も吐き出した。指の間から血が零れ落ちていく様を、沖田は苦しみながら見つめていた。
 あとどれぐらいだ。切実な想いと共に、唇を噛み締める。
 あとどれぐらい、この場所で生きていられる。この場所にいてもいい。
 肩で大きく息をしながら、なんとか立ち上がる。誰にも知られないように地面に零れ落ちた血を足で伸ばし、無かったことにする。
 井戸の周りに誰もいないことを確認してから、手と口についた血を洗い流した。
 桶に張った水の中に写りこんだ、自分の姿を見て嘲笑する。
 青白く生気ない肌。少しずつやつれて、やせ細っていく体。これが、新選組一番組組長の末路。なんとも情けなく、呪わしいことか。
 もうすぐ刀も握れなくなる。やがて床から起き上がることも出来なくなるだろう。
 でもそれまでは、どうか。
 あの人の傍で、刀として。
 だが沖田は、その思いに首を振った。
 わかっている。もうそれすらも、許されない時が近づいていることを。
 労咳は罹患する。これ以上そばに居たら、自分はあの人を殺してしまうかもしれない。それが何よりも恐ろしい。
 坂を転がり落ちていくようだ。命も思いも、この場所から遠く離れていく。それを止める術なんてどこにもなくて。
「ふっ…くぅ……」
 ぽたぽたと、透明な雫が顎を伝って桶の中に落ちて、波紋を残しては消えていく。
 僕はこの場所から消えなければならない。その為なら、局中法度すら破ってもいい。そう思えば思うほど涙は溢れて零れ落ちる。
 訣別の言葉を紡ぐ瞬間、あの人の前で泣かないように。いましばし、泣かせて欲しい。
 もう、泣かないから。
 誰に誓うでもなく、沖田は心の中でそう誓った。
 宵のほとりで、ひとり泣く小さな音は、幻のようにどこに伝わることもなく、消えていく。
 一頻り泣いた沖田は、顔を洗い、井戸に寄りかかるようにして、うつむいた。
 身を切られるような切なさが、ただ苦しかった。
「ひじかたさん、」
 小さくその音を紡ぐ。昔から何度も何度も紡いできたその音は、不思議と柔らかくて、暖かくて。まるで日の光のようだった。
 お守りのようにその名を紡ぐ。もしかしたらこの強い言霊が、自分を助けてくれるのではないかと、叶わない、子どものように幼稚な夢を思い描いて。
 さあ、全て終わらせなきゃいけないね。
 沖田は、小さく笑った。

 沖田が土方の部屋を尋ねたのは、夜半も過ぎた頃だった。
 蝋燭の明かりが消えたことのないその部屋は、筆が紙を走る音しかしない。
「土方さん、沖田です。ちょっと今、よろしいですか」
『沖田か。ああ、入れ』
 いつもと変わらない声音に安堵しながら、沖田は失礼しますと一声かけて中に入る。土方は珍しく、髪を解いて机に向かっていた。
 綺麗なさらさらとした髪だなぁ、とぼんやりと見つめていれば、どうしたんだと無言で目を向けられて、沖田は慌てて居住まいを正した。
「で、こんな時間に尋ねてくるなんて珍しいな。どうしたんだ」
「ちょっと土方さんに、お願いがありまして」
「お願い?」
 土方は不思議そうに首をかしげた。沖田は、そういえば土方さんにあまりお願いをしたことはないな、なんてふと思い当たる。
 自分のお願いがこの人の重荷になってしまいそうで、嫌だったからだ。最後の最後くらいは、甘えてもいいだろうか。
 それは土方も同じ思いだったようで、先を促してきた。
「お前がお願いなんて珍しいな。で、なんだ」
 沖田は口元にうっすらとした微笑を湛えた。

「新選組を、辞めさせて欲しいんです」

 訣別の言葉を紡ぐ。
 土方の瞳が、ゆっくりと見開かれて丸くなっていった。
「なん、だと…?」
「僕、労咳に罹っちゃったんですよ。今まで黙っていてすみません」
 嘘だろ、と土方の唇が動いた。
 沖田はふつりと押し黙り、じっと土方を見つめた。唇からはあの微笑は消え去り、ただきゅっと閉じられていた。
 重苦しい沈黙が流れる。
 表情を一切なくしたような土方が、漸うと口を開いた。
「…さねぇ」
「え?」
「許さねえ。お前が新選組を抜けるなんて、許さねぇぞ俺は!」
「ちょっ、土方さん?!」
 がんっ、と拳を机に叩きつければ、沖田は怯えたように身を竦ませた。
「労咳だぁ?うんなん知ったこっちゃねぇよ」
 土方は立ち上がり、沖田のところまで足音荒く歩み寄ると、胸倉を掴み上げた。ぎらぎらと光る紫の瞳で沖田を射竦めると、地の底から響いてくるような声で言い捨てた。
「お前が労咳に罹ろうが何しようが、新選組を抜けるなんて許すか。死ぬときは俺の隣で、死ね」
 ぱっと手を離すと、鼻を鳴らしてだかだかと部屋から出て行ってしまう。
 土方の怒気に当てられて暫く茫然としていた沖田は、小さく声を漏らした。笑っているかのような、泣いているかのような、さざめくような声。
 一度深く息を吐いて、呟いた。
「なにを言ってるんですか、土方さん……思い上がりも甚だしいですよ…」
 貴方が僕を捨てるんじゃない。
 僕が、貴方を捨てるんだ。

 裸足のまま庭に下りた土方は、己の無力さに打ちひしがれていた。
 労咳は死病だ。総司は助からない。
「くそっ…!」
 そういえば池田屋事件の後から、総司はずっと体調を崩していた。何故気付いてやれなかったのかと、土方はただ手を握り締める。
 あいつを人斬りに仕立て上げ、こんな血みどろの深みまで追い落としたのは間違いなく自分だ。あのまま故郷に置いてこれば良かったものを、一緒についてくると言ったのが嬉しくて、こんなところまで連れてきてしまった。
 その挙句、労咳だ。自分はどこまで総司の幸せを奪えば気が済むのかと、己の傲慢さに吐き気がする。
 先に見た笑顔を思い出す。
 あれは、全てを悟って受け入れた人間の顔だ。総司はもう、覚悟してしまっている。自分ではどうしようもない。
 あれは己の手からすり抜けていくだろう。
 いとも簡単に、するりと抜け落ちて、やがて消える。
 ――いやだ、と。唐突に、そう思った。あれを手放したくないと。あれをこの手の中に掴んでおきたいと。
 土方は一度、頭を振った。俺は総司をどうしたいんだと、苦笑する。
 自分の中に芽生えた感情に名前をつけることも出来ず、土方はただ、苦悩する。
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