short novels

□アイビー
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楓、とイルミがあたしを呼んで、応えるようにあたしは微笑む。

「お帰り、イルミ。」
「ただいま。…急いで帰ってきちゃった。」
「えー、良いの?」
「大丈夫、仕事は完璧。」

抱き締めてくるイルミからは、風呂上がりの清潔な香りがした。血の匂いを苦手とするあたしを気遣って、どんなに疲れて帰っても念入りにシャワーを浴びてくれる。血の匂いがすると楓が遠ざかるからね、と、以前イルミが苦く笑って言っていた。

「流石。」

平気だよ、と、でもあたしは言ってあげることが出来なかった。

「ふふ、頑張っちゃった、オレ。褒めて良いよ。」

何でそんなにも幸せそうに微笑むの? どうしてその顔を他の人に向けないの? そうやって微笑むのがあたしにだけなのは、何故?

「お疲れ様。…無事に帰ってきてくれて、ありがとう。」

好きだよ、イルミ。イルミのこと、誰よりも好き。あたし自身が、この世の誰よりもイルミが好きという意味でも、あたしの好きな人達の中で、一番にイルミが好きという意味でも。だけど…。

自分だけに向けられる愛を、喜びの感情だけで受け取れる時代は過ぎてしまった。過分なほどの愛は、重くそして怖い。


「何もなかった?」


光のない双眸が向けられる。疑いの眼差し。仕事帰りのイルミはいつもより何倍も疑り深くて嫉妬深い。

正直、重い。

「うん、問題なかったよ。」

仕事柄、誰かの裏切りを目にすることが多いのだろう。浮気関係の依頼もあるにはあるらしい。だから、仕事帰りはこうなるんだろうと思う。

「本当?」
「ほんと。」

ねえもしも、もしもあたしが浮気したのなら、どうする? キレちゃう? キレてあたしを、殺しちゃう?

「ちょっとは信じてよねー。」

それとも自慢の鋲で刺しちゃう? あたしを操っちゃう? マリオネットみたいに、イルミの好きに。

それとも、もしかして、

「ゴメンゴメン。つい、ね。」

狂っちゃうのかな。ただ、純に…。

嗚呼どうして、こんなことを考えてしまうのかな。昔からこうだった? 違うよ。昔は、もっと自由で…。

とりとめのない、何の益にもならない考えを振り切るように言う。

「もう寝よう?」

窓の外のアイビー。緑のカーテンに向いてない筈なのに、巧く育ってる。誰かの念能力なのかな。

「誘ってる?」
「ばか、違うよ。休みなって言ってるの。」

ねえもしも。続けて言いかけて咄嗟にやめた。我ながら賢明な判断だったと思う。

「何て言おうとしたの?」
「んー別に?」
「…オレに言えないこと?」

ぞくっとした。ああまた、疑ってる。

「…いや、ただ…。」
「ただ…、何?」
「…もしもあたしが、さあ、例えばね。」

浮気したら、と言えば、自殺と同義なのは目に見えているから。

「死んじゃったりとかしたら、どうする?」
「…何で。」
「え。」
「何でそんなこと言うの…。」

イルミご自慢のポーカーフェイスが、簡単に崩れる。そこにイルミのあたしへの依存が在る。解りやすい人。

「…ごめん。ただ、なんとなく気になっただけだよ…。」

ちゃんとここにいるから。主張するように抱き締めると、抱き締め返された。

「…怖いこと言わないで。」
「…ごめん。」

あたしを抱き締める腕は、見かけと違って逞しくて、硬くて、鍛えられていると解る。それなのに、心はこんなにも脆い。失うことを恐れすがる様は子供のようだ。

健全なる精神は、健全な肉体に宿ると云う。そう言ったユウェナリスは、だけどそんな字面の意味を伝えたかったわけではないのだけれど。

「…イルミは、健全じゃないのかもね。」
「え?」
「だって、今にも折れそう。」

さらさらの黒髪に触れる。少し、湿っぽい。自分で乾かしたの、とそっと尋ねると、きっとあたしにしか見せないのであろう素直さで頷いた。

「早く楓に会いたかったから。」

重い、重いよイルミ。

「…オレは健全じゃない?」
「うん。」
「ひどいなー。これでも、健康には気を遣ってるのに。」

それでも、だよ。イルミには柳のしなやかさがない。受け流せない。ただただ尖って、細く細くなっていく。

何時か折れてしまいそうで、あたしは怖くなる。

「…ねえ、さっきの。」
「ん?」
「楓が死んだら、って話。」
「もう、良いよ。」
「それでも、言いたい。」
「…。」

言い出したら聞かないね。もう頷くしかないのは解ってる。

楓は嫌がるだろうと思うけど、と前置きして猫みたいな目があたしを捉えた。その目にあたしはいつだって、優しさと愛しさを感じる。強すぎる想いが目から溢れそうだね。

「きっとオレは、後を追うよ。」

予想外では、なかった。存外冷静に受け止めている自分がいた。

「置いてかれるのが辛いってのもすごくあるけど、でも、単純に離れたくないんだ。」

苦しくなるくらい強く強くあたしを抱き締める。息ができないよ、と小さく言ってみるけど、不安に押し潰されそうな顔を見ると言葉を失ってしまう。

そしてイルミは、でも、と続けた。

「…死んだのがオレだったら、楓。後、追っちゃダメだよ。解ってると思うけど。」

勝手だね、と思わず答えた。そこに、あたしのイルミへの依存が在った。

はっとした。

「…死んだって、オレは楓の傍にいるから。」

巻き付いてくる腕が蘿のようだ。

その既視感に、そっと窓を見やる。視線の先に、昼の光を奪う蘿。アイビー。

「…うん。」

確か花言葉は、





『死んでも離れない』


貴方みたいだねと言ったら、笑ってくれるだろうか。


きっとあたしは、貴方の願いを叶えられない。貴方がそれでどんなに哀しむとしたって、もう、貴方なしでは生きたくない自分に気付いてしまったから。

貴方なしでも生きられる。でも、貴方なしでは生きたくない。

ごめんなさい。きっとあたしは、貴方の後を追うだろう。

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