□口実
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「xxxさん、ここに座ってくれる?」




右腕にはいつも先生が使っているスケッチブックがあった。




空いている左手を使って椅子を置き、円形に並べられた椅子の真ん中、円の中へ私を誘導した。




先生の描いた落書きがある黒板を背にし、どぎまぎする気持ちを落ち着かせながら腰を掛ける。




「今日は少し暑いねー。」




伏し目がちになる彼の目元は、長い睫毛をよく見せた。




イーゼルにスケッチブックを置くと、ページが捲られる音がする。




教室にその音がやけに響き、二人しかいない空間を強く感じさせると、私は更に体に力が入った。




「もしかして、緊張してる?」




返事を忘れていた私を気にしたようで、伏し目がちだった顔を少しあげ、上目遣いに聞いてきた先生を見て、また少し心臓が騒ぎ始める。




「…まぁ、少し。どんなふうに座っていたらいいのかも分からないですし…」




明らかに緊張してます、と言わんばかりの口調に、ふっ、と口元を緩ます先生は、その顔がいちいち私を釘付けにすると分かっているのだろうか。




「じゃあねぇ、そうだなぁ。うん、そうしよう。」




いつもの間延びた喋り方で少し考えるような素振りを見せると、決まりました、と言って私の方を見る。




「好きな人を想っているxxxさんを描きたいので、」




「…え、」




「今から好きな人のことを頭に思い浮かべてください。」




ふふふん、と楽しそうに鼻唄を始める先生は、はいスタート、と言って有無を言わさず鉛筆を手に取った。




好きな人…?




私は少し唸りながら、俯く。




好きな人って言われても…。




床の木目に視線を落とすと、少し目立つ割れ目に気が逸れた。




私の左足の爪先から伸びたそれはずっと長く、真っ直ぐ伸びていて、爪痕を辿るようにそれを辿る。




ずっとずっと、伸びていく。




…あ、




行き着いたところは彼の黒いシューズの爪先で、私は少し躊躇したものの、視線を上へと上げていった。




線の細い足元から、上へ。




「……………」




止めることを忘れて身体の線をなぞっていと、彼の細い綺麗な指先は無造作に動かされいて、それはきっと今、私の身体の何処かを描くための動きなのだろう。




透き通った白い首筋をたどり、顎、丸い頬をなぞる。




先生の目元へ行き着いた時、彼の瞳は私を捉えた。




目の奥の暗い夜に吸い込まれてしまいそうな、そんな目をしていて、息をすることも忘れて、身体が熱くなっていく。




どくどくどく。




心臓が少し痛いくらいに脈を打ち出して、彼から逃れられない。



私の心臓の音を聞かれてはいないだろうか。
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