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□キスをしながら唾を吐く
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キスをしながら唾を吐く







例えば、何かの拍子に肩が触れる、手が触れると、その部分だけが何故か熱くなった。

理由はわからないし、わかる必要もないと思っていたけれども、男にとってそれは悪くない気分だったので、これは下心なのではないかと、少しだけ後ろめたい気持ちがあったのも事実だ。

触れたいと思っていたから、その日手を振り払われたのはショックだった。
ナミは背を向けてたちまち自分の元を離れてしまった。

そんなことがあったから、ゾロはヤケになって酒場を求めてさまよっていた。

(なんだ、あいつ....)

ゾロは両手をポケットに突っ込んで前のめりに歩いた。
胃が締め付けられるようなことは考えたくなかったので、思考を振り切るように、それで自然と足早になる。

(事故だろ....)

ナミの手と自分の手が触れたのはたまたまだ。
すれ違う時に当たったのだから故意でないことは当人もわかっていたと思うが、

自分が馬鹿げたことを考えていたのが、バレていたのだろうか?

そりゃ、触れたい。
髪に顔をうずめたい。
抱きしめて温度を確認したい。

この感情に名前をつけるならあのアホコックが年中言ってるようなことになるのだろうが、自分がそう認識すると、何かが変わってしまう気がして、ゾロはずっと前から同じ場所に佇んでいる。
それは居心地のいいぬるま湯という場所。

(....情けねェ)

心が弱いから、こういうことになる。

適当に歩いて来たのに場末の飲み屋街らしきところに出ることができたゾロは、とにかく強い酒を欲して店に入る。
得てして客層は良くなかったが、女の一人歩きじゃあるまいし、豪快に酒のグラスを煽るのを見てバーテンが声を掛けてきた。

「お兄ちゃん、なんか嫌なことでもあったのか?」

「......いや。」

こんな女々しい理由を他人に言うくらいなら、地獄に落ちた方がましだ。

もうグラスではなく瓶の方に氷とライムを入れてくれ、と思うようになって来た頃、女が一人楽しそうにこちらを見ているのに気づき、居心地が悪くなって外へ出た。

すると女もついて来て、居丈高に言った。

「あんた、女に振られたの?振られて落ち込むようじゃ、まだまだ青いんだねぇ。かわいいじゃない」

煙管を吹かす女は若いようにも、年老いたようにも見える。
特にゾロにはその辺の機微がわからなかった。
まだ振られる段階にさえないと思いながらも、答える義理もないので立ち去ろうとすると、腰を掴んで離さない。

「私が教えてあげるよ。あんたのこと、気に入っちゃった。」

何となく不快な感じがして、ゾロは離せと小さく言った。

女はふふふと笑ってゾロにしな垂れかかり、抱きついて来る。
避けられなかったのは強い酒に酔っていたからで、予測もしない行為だったせいだ。

女は当たり前のようにキスを迫り、あろうことか股間にまで手を伸ばして来る。

あまりのことに、殴ってでも剥がそうと言う自分と、この力加減では間違いなく甚大な怪我をさせるだろうと言う自分と様々な思考が横入りして少しの間竦んでしまった。

そこに聞き覚えのある声がしたのは幸か不幸か。


「あら、私の男に何かご用?」


美しい女がそこにいた。
ゾロにとっては地獄に仏の気分だった。
ナミは鷹揚に微笑んでいて、若く美しく余裕のある女そのものだ。


ゾロにもたれかかった女はハッと来訪者を見た。


女は相手のランクを見抜く。
どちらが上で、どちらが下か。
一瞬にして自分の位置を認識した女はいたく不愉快だと言う顔をした。

「ね、ゾロ機嫌直して?私はもう怒ってないわ?」

ナミはゾロの腕に自分のそれを絡めて下から覗き込んだ。
まるでゾロが恋人で、それを女に見せつけるように。

「あんたこの男の女かい」

「そういうことになるかしら。心情的には迷子の犬を探す主人の方が近い気がするけど。」

圧倒的な主従関係。
従えるのは獰猛なドーベルマンだ。

「一晩ぐらい良いようにさせておやりよ。安くしてあげるんだから。」

「こいつがそうしたいなら構わないわ。でも、そうじゃないようだったから。」

返答がないのを肯定と見なして、その場を支配したナミは愛想よく笑う。

「じゃ、行きましょ。お世話さま。」

それはそれは強い力で引っ張られ踵を返す。

助かった....とゾロは安堵の息を吐いた。
しばらく酒場を離れるまで歩いて、唐突にナミは絡めた腕を乱暴に離した。

「ナミ、すまねぇ、助かっ...」

「お楽しみのところ、邪魔しちゃったかしら?」

食い気味に言って、ナミはゾロを睨めつけた。
ナミは怒っている。すごく怒っている。
鈍い自分でも言葉と態度が裏腹だとわかるほど、ナミの怒りが伝わって来て、剣士は言葉を飲み込んでしまった。
冷ややかな目で見られるくらいなら、いつも通り怒鳴ってくれる方がましだとゾロは思い、取り乱して口調が荒くなる。

「なっ、なんでテメェ怒ってんだよ!」

「あんたが道端で変なことしてるからでしょ!!不潔!!」

「あれは!向こうが勝手に...!!」

「避けるなり逃げるなりなんなりできるでしょ!あんたなら!!通用しないわよそんな言い訳!」


怒りながら、ナミの目にみるみるうちに涙が溜まって行くのがわかった。
なんで。どうしてあんなこと。

「お前っ...何で泣いて...」

「知らないわよもー...何で泣いてるのかなんて私にもわかんない」

うえ〜んと子供のように泣き出すナミが珍しくて、彼にとっては可愛い新種の生き物のように思えて、どうすればいいのかわからずに剣士は右往左往した。

「そんな、お前がそんなに泣かなくても...」

「泣きたいのは俺の方だって?」

泣き濡れた大きな目がじとりと睨めつける。

「そんなこと言ってねぇだろうが!」

「じゃあ何が言いたいのよ!」

何がって。

ーー自分は、落ち込んでいたのだ。
手を避けた、お前の態度によって。

触れたいのに、触れてはいけないものだと言うことを改めて認識させられて、もうこれ以上沈めないところまで沈んで、その気持ちを無視することができなくなってしまった。

他の誰にも触れたいだなんて思わないのに、そう思うということは、要するに、そう言うことなのだ。

自分を助ける為とは言え、私の男だと、恋人のように腕に触れて、自分はされるままどうすることも出来なくても、まだその腕が熱いのだ。

ーーそんなこと、言えるか。

女々しく、男らしくなく、弱々しいにも程がある。

そんな自分に腹が立って、腹が立ち過ぎて、ゾロは思慮もなにもなく自暴自棄に口を開いた。

ーー浅慮だった。



「だいたいテメーは、人の気も知らねーで、気安く触るんじゃねーよ」



あ、やばい、と思った。


これを言ったら傷つくんじゃないかと、思った時には遅かった。

見開かれた目が、こちらを見ていた。

水分が充分で、ふるふると細かく揺らめいているように見える目が。

今まで見たことのない表情をした女は、間違いなく傷ついていたし、打ちひしがれていた。


そもそも、ナミはゾロを避けてなどいなかった。
触れた手を避けたのは、恥ずかしかったから。
ゾロを女から助けたのは、困っていると思ったから。

でも、こんなに怒っていたのはなぜだろう。
涙が出るほど、ムシャクシャした態度に出たのはなぜか。

わかりそうで、わかろうとしたところで、突然突き放された。
突き落とされたと言っていい。

触れるなと言われた。
触れられることが不快だと、男はそう言ったのだ。

そうか。私、ゾロが好きだったんだ。

わかった瞬間突き飛ばされて、相手の姿は遠くなってしまった。
だからこんなに今、悲しい。

だから、手が触れたのにびっくりして避けてしまったり、女に絡まれるゾロに当たったのだ、嫉妬して。

「...そう。悪かったわ。」

「あ...ちが.....っ」

「もう二度と、事故でも触らないようにする。そっちも気をつけて。できるだけ接さないようにしましょ。狭い船だから難しいかもしれないけど、最大限努力するわ。」

胸が痛い。心臓が誰かに掴まれて締め付けられている感じ。
泣くのは違う気がした。
自分の心情を説明するのも、そんなこと、怖くて出来るはずもない。

アルコールを体に流し込んでグズグズになってしまいたかった。

一刻も早くこの男の前を離れて、誰か他の男に抱かれるのでもいい。

誰でもいい。

どうでもいい。

男に振られた女なんて、負け犬もいいとこ。



ーーまさか私がそうなるなんてね。








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