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6.壊れた人形








「わかってると思うけど、ナミちゃんに確実に読んでもらえるとは限らないのよ?」

レイジュは船に乗り込もうとするイチジに念を押した。

自分がサンジにしたこと、ナミにしたことを忘れてはいないだろうに、人が変わったような弟に戸惑うのだ。

手紙にはナミへの偽りのない気持ちと、謝罪があった。
無理強いをしたことや、嫉妬に駆られたこと、ナミの幸せを願っていることが書かれていた。

イチジの心に、何か革命的な変化が起こっていることを、レイジュは研究者の1人として感じる。

そんな変化が現れるイチジが、羨ましい。

自分よりも大切な人を想う気持ちを、自分たちは小さな頃に失っているのだ。
それはある意味、自分たちも被害者だということを指すかもしれなかった。

けれど、それで人を傷つけていい理由にはならない。

それをイチジは、本当の意味で理解できたのかも。

「それでもいい。」

手紙が読まれようと読まれなかろうと、読む前に破り捨てさられようと、それは自分の手を離れた瞬間から相手に委ねるべきものだ。

自分が前に進むには、こうすることが必要だった。
多くの間違いを犯し、多くのものを傷つけた。
物事に正解はない。
したことを取り消すこともできない。
けれど、彼女を想う自分は、少しでも善い自分でありたかった。

過去を悔い、自分の常識を疑った。
生まれた環境がそうだからではなく、自分がどうしたいかを考えるようになった。

例え報われず、卑小な自分の想いを笑い飛ばされようとも、もう同じ過ちを犯しはしない。

自分はまだ、歩き始めたばかりなのだから。



それを教えたのは。


「ただ一目会いたいだけだ。」


想いを伝えるとしたら、それは感謝だ。

ようやく、自分の道を歩いて行けることへの。
















ナミはその日、食事に来なかった。
ゾウに向かう航海はもうあと数日のうちに終わる。
まだ一味が揃わない食卓にナミが欠ける穴は大きく、心配した乗組員たちが騒ぐ。


それを宥めるのはコックの役目。食事を持って行くのもコックの役目。
それをしなければ勘ぐられることは間違いなく、サンジは盆を持ち女部屋のドアの前で俯いていた。


ごめん、ナミさん。

謝ってももう取り返しのつかないことを、何度も何度も、おれは。


醜い嫉妬だった。

それは、向き合わねばならないことを果たさなかった、自分への憤りでもあった。

君の気持ちに向き合わなかった。
自分のことを守るのに精一杯で、自信がなくて、信じられなかった。

そうしているうちに、離れ離れになった。

ずっと一緒にいられると思っていた奢りの上に、おれたちの関係は成り立っていた。

君や仲間を守りたくて結婚を受け入れたが、そのせいで君はイチジの元へ。

見初められるのは、よくわかる。

おれも君を初めて見た時、そう思った。
君をただの女性じゃないと気づく気持ちは、おれにはよくわかるんだ。

だけど君は、一緒に長い時間を過ごして来た君は、本当に、本当に可愛くて、かっこよくて、素敵で、

優しいところも、善良なところも、おれに向けてくれる信頼も、その内面の美しさ全てが好きだった。

なのに、ごめん。
おれが君の想いに応えないばかりに、こんなことになってしまった。





「ナミさん、食事、持って来た。」




ドアを開けると、真っ暗な部屋の中で君はベッドに横になっていた。

こんなに痩せていたっけ?

目は虚ろで、光がないので余計に顔色が悪く見える。

返事はなく、ゆっくりとこちらを見て、また天井に視線を戻した。

何にも無関心なその表情に、
サンジは背中に汗が滴るのを感じた。

ぴくりとも動かなくなった彼女のまぶたは重く、息は薄く、体温を保つこともままならなかった。

異常だった。
サンジは目の前の人が壊れたことを受け入れられなかった。

自分ならいくらでも壊れていいと思っていた。

なのに、壊れたのは自分ではなく彼女だった。

嘘だ。嘘だ。彼女はずっと自分を受け入れてくれていた。
まさか、そんなはずない。
きっと笑ってくれる。
ナミさんは笑ってくれるはずだ。
おれが「笑って」と言えば───


「ナ、ミさん⋯⋯?」


反応はない。
こっちを見て欲しくて、頬に触れる。
冷たい肌に背筋が騒ついた。

「笑って⋯⋯」


そう言うと、
ナミはサンジの方を向き、にこっと笑った。

サンジは肌が粟立つのを感じた。

君の本当の笑顔を知っていた。
病床で笑う人を知っていた。
その優しい微笑みとも、心からの笑顔とも、その顔は違う。

悲しみや絶望や、彼女が感じる全ての感情を殺した笑顔だった。
大切な人の為に嘘をつき続ける君がする笑顔だった。


こんなに酷いことをしたのは、一体誰だ。

ずっと、君はおれを受け入れ続けて、心に嘘をつき続け、無理をして、本当はしたくないことを、本当はされたくないことを受け入れて、そんなにもおれのことを想ってくれていたのに、おれは君の気持ちに向き合わず、自分のわがままをどれだけ受け入れてくれるかを試した。


サンジは泣きながらナミの手を握った。

冷たくて今にも消えてなくなりそうな人に縋った。

「ごめん、ナミさん⋯⋯っ。
もう、おれの言うことなんか聞かなくていい。したくないことはしなくていい。
おれはもう、大丈夫だから、君が無理をしなくても、ちゃんと立てる男になるから。だからお願いだ⋯⋯」

そんな顔しないで。
本当のナミさんに戻って。


「ん⋯⋯だめよ、サンジくん。」

ナミが口を開いた。

「私のとこに来ちゃ、プリンが悲しむわ。私は大丈夫だから、奥さんのとこに行ってあげて。」


嫌にはっきりとした声音だった。
萎えた体とは裏腹に、物分かりのいい女を演じているような、明るい声。


「プリンちゃんとは、何もないよ。結婚しなかったんだ。
ナミさん、どうしたの?忘れちゃった?」

サンジはポロポロと涙をこぼす。
ナミの口ぶりに違和感と、言葉が伝わらない怖さを感じた。
捻じ曲げられた事実を頑なに信じているその歪みが、言い知れない恐怖をサンジに抱かせる。



ナミは何を考えているのかわからない顔で言う。

「?プリンにプロポーズしたんでしょ?それに、プリンのこと可愛いって言ってた。ずっと気にしていたし、プリンもあんたが好きだって言ってた。
⋯⋯もし私がプリンなら、違う女のとこに行くのは嫌だもん。
だからもう、私のことは放っておいていいのよ。」


サンジは涙を留められないままナミの手を握る。


「ねぇ、ナミさん、おれが好きなのは、君だよ。君だけが好きだよ。愛してる。お願いだ、信じて欲しい。」

心臓が速くなる。
どうか伝わって。
そう願いながらナミの顔を見る。


「大丈夫よ。わかってる。」

ナミはにこりと笑った。



「早く、本当に好きな人のとこに行きなさい。いつまでも私に執着してちゃだめ。私、わかってるから。もう、ちゃんとできるから。」



好きな人に体だけを奪われた。
心が置き去りの行為は胸が張り裂けそうだった。

記憶の前後が曖昧だ。
思い出すことを拒否している感覚もある。


母親役や、恋人役や、妻や、仲間や、都合の良い女、どれにだってなってあげたかった。

サンジが望むなら、どんな役目も果たしてあげたかった。

けれど、サンジはもう自分以外のたった1人を決めてしまった。


ならば、私はそのどれにももう、なれない。




───本当の私って、どんなんだっけ?








わからないことを考え疲れて、ナミは眠った。














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