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7.一輪の花












約束の島でオレンジ色の髪を見つけた。
そして、すぐにそれが別人だと気づく。

それだけのことでも、心が幸福に包まれる。

例えば、爽やかな風、柑橘の香り、オレンジ色の髪。

あの人を連想させるものはみな、イチジの心を幸せにする。













「ねぇ、見て、ナミさん。港が見える。」

「うん⋯⋯」

虚ろな瞳が以前に戻ることはない。

いつも通りを装う君も、おれにだけはわかる。

今の君は本当の君ではないこと。

そうしてしまったのは自分だと言うこと。













ナミはゾウへの航海中、進むべき指針が動いているのを気にしていた。
ズニーシャは動く。

このままでは、イチジの手紙にあった島へ、寄港することになるだろう。

サンジは自分を抱くのをやめてしまった。
どうしてだろう。
プリンと結婚したからだろうか。
自分が諌めたからだろうか。
他に好きな人がいるのに、こんなことをするのは良くないと。

───次は、私は誰を癒せばいいのだろう。

無理矢理体を開かれることと、心と体がちぐはぐなまま犯されることは、少しずつ少しずつ、ナミの心を蝕んだ。

割り切っていたはずだった。
綺麗事は嫌いだ。
汚い部分も、綺麗な部分も、全部合わせて自分だと、誇りを持っていた。

だけど。

好きな人に認めてもらえないまま抱かれることは、ナミをナミたらしめる自信を失わせるに十分だった。

拠り所になるのは、相手の期待に応えることだけだ。

相手が望む自分にならなければ、自分には存在価値がない。
誰かを癒すことでしか、自分に価値を見出せない。

そうして、自分を見失ってしまった。











イチジは遠くからナミの姿を見て息をのんだ。
痩せている。
肌は青白く、表情は思いつめて、立っているのも辛そうに見える。

仲間に支えられるようにして船を降りているのが見えた。
隣にはサンジがいる。

自分に会いに来た、というわけではなさそうだ。

それくらい、自分にもわかる。

食糧と物資を調達し、また旅に出るのだろう。

一目見られて、よかった。

これ以上は自分の出る幕ではない。
ナミはサンジと結ばれ、幸せなのだ。
自分にもたらされたものと同じ、幸せを享受しているはずだ。

そう思っても、隣立つ2人を見るのは辛かった。

イチジは背を向けて港を立ち去った。














船から降り、よろけるナミをサンジが支えた。
食事が喉を通らないようで、チョッパーには貧血だと言われた。

思いつめる彼女の表情を見るたびに、胸が痛かった。
腕を支えて足元を確認した時、ナミが息をのんだのがわかった。

目を見開き、前を凝視してナミは呟いた。


「イチジ⋯⋯」


サンジの心臓が大きく跳ねた。
それは兄の名をナミが呼んだからではなく、イチジを見てナミの目に光が戻ったからだ。

その視線の先にもうイチジはおらず、ナミはまたぼうっと遠くを見た。












その島で宿泊することになり、ナミは一人取った宿の部屋にいた。

私、今度はイチジに会わなければいけないかも。
サンジはプリンと幸せになった。

今度は、イチジが幸せになるまで。

誰かを癒していなければ、私には価値がない。

だから、頑張らないと。

苦しいことも、悲しいことも、頑張って受け入れないと。

少しずつ狂って行ったナミの思考を止めることは誰にもできなかった。
それを信じ、自分で自分を傷つけ、その痛みこそが生きている証だった。


きっとイチジはこの街で一番いい宿に泊まっている。

ナミは着替えて一人、宿を抜け出した。













「見つけた。」

ナミはホテルのラウンジで何かを飲んでいたイチジを見つけ、後ろから腕を絡ませた。

ガタガタと茶器をぶつけて慌てるイチジに、ナミはくすりと笑う。

「っ!ナミ」

「部屋に案内してくれる?」





だだ広い部屋に通され、ナミはソファに腰掛ける。

「久しぶりね。」

「⋯⋯何故ここへ。」

イチジは混乱していた。
さっき見た光景がまだ目に焼き付いている。
サンジの手を取るナミ。ナミを見つめるサンジの目。
交わることのない視線と、痩せた体。



「あんたに会いに来たの。」

それは。
───もしお前も同じ気持ちなら
イチジは手紙の内容を思い返す。

ナミは立ち上がりおもむろにドレスの肩紐を落とした。
片方、そしてもう片方を。

その性急さに、違和感を覚える。
どこか虚ろな目も、意思の薄弱な動作も、なにかおかしい。




「⋯⋯サンジはどうした?」

「彼は関係ないわ。」

そう言ってキスをしようとして来る。

「待て。お前はおかしい。何故口付けようとするんだ」

「なに?嫌なの?」

「そうじゃない。お前がおれを愛しているならおれはそれを受け入れよう。だがそうでないのなら、そんなことはすべきじゃないんだ。
一体何がお前をそうさせる?」


自分はもう、生まれたばかりの赤子ではない。

自分で考え、自分の足で立ち、自分が願う世界で生きたい。
そうイチジは思う。



心のない触れ合いは、嫌だ。

ナミを知り、恋を知った自分には、心ない行為ほど惨いことはない。



「お前に伝えたいことがある。」


手紙を書いた時から、ずっと考えていたこと。


「ビッグマムからお前をもらい受けたあの時のことだ。
すまなかった。お前の気持ちを確かめることもなく、強引に奪った。そして、無理に婚姻の言葉を言わせた。これより後二度と、そんな無理強いはしないと誓う。」

母上ならどう言うだろう。
母上が生きていれば、どんな世界を望むだろう。

きっと愛する人を傷つけない世界を望むと、今のイチジは思う。

「ただ、会いたかった。今も、お前に会えた喜びでどうすればいいかわからない。
こんな風に誰かを想ったことはなかった。
やっと俺は、母上が願った心を手に入れたのかもしれない。
それは、」





「お前のおかげだ。ありがとう。」




ナミは初めて、イチジの笑顔を見た。

きっとこの人は、お母様に似ている。

優しい柔らかな笑みが、ナミの心に何かを気づかせる。


ここに居てもいいんだ。
価値がないと思わなくても、受け入れてもらえる。
なにも差し出さなくても、構わないと言ってくれる。

存在は許される。


「私⋯⋯本当は⋯⋯」



なんで気がつかなかったんだろう。



「私、ほんとは、したくない⋯⋯」



ナミは顔を覆った。
涙が止められなかった。

自分でも気づかなかった。
それは仕方のないことだったから。

逃げる為に、生きる為に、しなければならないことでもあったから。
やりたくない、そう思う自分の気持ちを無視し続けて来た。

サンジやイチジとのつながりは、きっとそれとは別のものだったのに。

「ゆっくり、進んで行きたい⋯⋯体だけは、辛いの。ほんとは、私が好きかをわからないままするのは、嫌だった⋯⋯だから、ゆっくり、やって行きたいの⋯⋯」


ちゃんと自分の心が追いつくまで、待って欲しいだけだった。

いつしか、心を伴わない行為は当たり前になっていて、冷えた心でも痛くならない方法や、早くやり過ごす技術ばかりが上達した。


愛していた人に無理にされて、確かに体は喜んだのに、心はズタズタになった。



ナミはイチジのシャツを掴んだ。


「私は、サンジくんが好きだったの。とても、とても。優しい人だから、他の誰かが好きになるのも、わかる。彼はプリンを選んだから、私は諦めなきゃいけなかった。⋯⋯のに、求められたら、応えたかった。好きだから、拒絶したくなかった。私を愛してくれてるんだって、思いたかった⋯⋯っ!」

相手を好きな気持ちにつけ込むことは搾取だ。
その関係は対等ではない。
歪な関係は心を蝕む。
自分を見失い、帰り道がわからなくなる。


イチジが気づかせてくれなければ、私はきっと、ずっと迷子のまま。



「ごめんなさい⋯⋯手紙、読んで⋯⋯私、イチジに酷いことを⋯⋯今も⋯⋯」


イチジはナミの頭をぽんぽんと撫でた。

ぎこちない動作で、胸にナミを抱く。

そこにいやらしさはない。

大丈夫だと撫でられた気がして、ナミはイチジを見上げた。



「⋯⋯サンジが羨ましい。」


ポツリと呟いたイチジを、ナミは凝視した。

「おれたちは母の胎内にいた頃から遺伝子操作を受け、科学的な干渉に晒されてきた。
そのせいで、おれたちには感情が芽生えなかった。それを母上は嘆いていた。
サンジは唯一、感情を持って生まれてきた。おれたちは小さい頃から、母上の歓心を一人で買っていた奴が、羨ましくて仕方がなかった。」

どこか遠い所へ視線をやるイチジは、もう忘れかけていた過去に思いを馳せる。

母を愛していた。
否定されて来たこの気持ちは、まだ心の奥底に。


「どんなに強く、どんなに皮膚が頑丈だろうと、野に咲く一輪の花に敵わない。おれたちの絶望がわかるか?
母上の病室に飾られる花が、何よりも母上を喜ばせるものだったんだ。」

父にしたように母の関心を得ようとして、どんな訓練も、一生懸命に取り組んできた。
それが正しいと信じていた。
頑張れば頑張るほど、母は悲しそうな顔をした。
望んでいたのは笑顔だったのに、母を悲しませるつもりはなかったのに。
その憤りはサンジに向いた。
母はより悲しんだ。
サンジからもらった花を大切にした。

花を慈しむ気持ちなど、知らなかった。


「そして今、お前はサンジが好きだと言う。
けれどもそれに絶望はしない。何故なら、お前はおれに感情を教えたからだ。自分よりも大切に思えるものがこの世にあると、お前が教えてくれたから。」


自分よりもナミが大切だから、ナミの幸せを願うことができる。

それは、共に過ごした僅かな間、ナミがイチジ自身を見ていたからだ。

男に媚びてしなだれかかることも、現状を嘆いてさめざめと泣くこともなく、いつ逃げてやろうかと思案する程に、常に前を向いていたから。
一途に愛する人を想っていたから。
自分の髪を優しく梳いたから。


「私、そんな風に言ってもらえるような、いい人間じゃない⋯⋯」

ナミは何も言葉にできなかった。
自分の気持ちを伝えたことも、激しい感情を露わにすることもしてこなかった。
傷つくのが怖かったからだ。
そんな程度の人間だ。
ここまで言ってもらえるほど、できた人間だとは思えなかった。

まして、先ほどまでは人生の底にいた。
間違った道を選び、自分で傷を増やして。

なのに、この人は私を心から愛していると言う。




「そう思うならいい。だが忘れるな。何故おまえがサンジはプリンと結ばれたと思っているかは知らないが、サンジはずっとお前を愛していた。
レイジュが話したのを聞いている。
サンジはレイジュに言ったそうだ。
結婚はするが、心に決めた人は別にいる。彼女を守りたいと。
“心に決めた人”と言うのは、お前のことじゃないのか?」














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