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8.同じ痛みを抱えて生きる
愛、と言う言葉を、これほど恥ずかしげもなく言う人を他に知らない。
それをナミは素敵なことだと思う。
それ以外の言葉が見つからないことは、確かにあるから。
「ハァ、ハァ、探した⋯⋯」
息を切らし、汗を流すサンジにナミは振り向く。
長い間君を探していた。
船に帰ろうとしたのだろうか、人気のない街路樹が並ぶ道で君の姿だけが異質だった。
「ナミさん、どこに行ってたの?」
肩で息をするサンジがナミの顔を見る。
ナミはしっかりとサンジを見据えた。
「イチジと会って話をしてた。」
目に強い光が見える。
色々なことを乗り越えた君がそこにはいた。
ナミさんは元に戻った。
安堵と、焦燥感がサンジを襲う。
君を救ったのはイチジだ。
それはおれではなかった。
おれは君を一度壊し、子供のように泣いて縋ることしかできなかった男だ。
サンジは自虐的に笑った。
虚ろな目はどこにもなく、君は毅然とした表情で立っている。
もう君は、おれを拒絶することができるだろう。
そして好きな男の元へ行くことだってできるだろう。
それがわからないほど、愚かにもなれなかった。
「⋯⋯何を話したの?」
「私、イチジに抱かれに行ったのよ。でも何もしなかった。」
「⋯⋯は?」
「そりゃ、理解できないと思うけど。私、どうかしてたの、イチジを癒さなきゃって思った。誰かの求めに応えていないと、消えてしまいそうだった。」
自分が一番したくないことを、我慢することが誠意だと思っていた。
それは間違っていた。
「でも、イチジに言われた。『お前がおれを好きでないならする必要はない』って。それで気づいたの。」
「私はもう、好きでもない人と寝ることはない。だって私には、仲間がいるから。囚われたって自分でなんとかしなきゃいけないことはもうなくて、絶対に助けに来てくれる仲間がいる。」
「は⋯⋯なんだよそれ⋯⋯」
その通りだ。そんなことは当たり前だ。
ナミが自分を犠牲にすることなどなかった。
イチジが危害を加えない限り、仲間の助けを待てば良かったのだ。
助けに行くことができなかった辛さと、ナミが乗り越えて来たものの過酷さと、自分の至らなさに押しつぶされそうになる。
腹が立った。
辛い道を選ばなくたってよかったじゃないか。
───おれの言うことなんて聞かなくてよかったじゃないか。
「じゃあ⋯⋯なんでイチジに抱かれたんだよ。⋯⋯なんでおれに抱かれたんだよ!!」
「あんたが好きだったからよ!」
ナミは目を閉じて叫んだ。
「あんたを助けたくて、なんとか披露宴会場に行かなきゃいけなかった。妻になれば連れて行くと言われた!だからイチジと結婚したの!披露宴会場よ!?なんで好きな男の結婚式に、こっちが心を砕いてあの手この手で駆けつけなきゃなんないの!?」
ナミは抑えてきたものを解放するように言い放つ。
素直になりたいと思っていた。
自分の言葉はどこまでサンジに届くのだろうか。
サンジが衝撃を受けたように目を見開いているのが見える。
やってしまったことは消せない。
傷つけたこと、傷つけられたことをなかったことにはできない。
けれど、あなたが私に与えたものだって、なくなることはない。
過ちも、痛みも受け止めて、それでもわたしの中に残ったものは
「それでも私の心には、サンジくんへの感謝の気持ちしか残ってない⋯⋯。」
ナミは無意識に胸を押さえた。
「あなたがしてくれたことを、忘れることはない。
サンジくんはいつも私を守ってくれた。それは私が弱いせいかもしれないけど、優しくしてくれた、一緒にいたたくさんの日々を、忘れたりなんかしない。」
ナミは続ける。
「私、自分を見失ってたの。サンジくんがプリンにプロポーズしたって聞いて、どうすればいいのかわからなかった。ずっと言って来なかったことを言わなかったせいね。
イチジがいなければ、気づかなかったかもしれない。
───今まで心配かけて、ごめんね。」
一粒涙を流すサンジの頬に触れた。
サンジはようやくナミの気持ちを理解した。
迷って、間違えて、やり直した。
「サンジくん。私はサンジくんが好き。大好きなの。一緒にいると、私は幸せなの。」
この顔が、目の前にいる人の姿が愛しい。
「これは仲間としての気持ちじゃなくて、きっと、私の自分勝手な想いも含まれてる。私だけを見て欲しいって思う。でも、あんたらしさを変えさせるのも嫌だから⋯⋯」
「自分勝手なんかじゃない。」
サンジがナミの手を取った。
「気づいてなかった?おれが君しか見てないことに。君は他のどんな人とも違うんだ。
ずっと、ずっと長い間、君のことが好きだったよ。大好きだ。きっと初めて会った時から。
おれは本当に、君の為なら自分はどうなってもいいって思えるんだ。」
君を諦めて、他の誰かと結婚することだって、君の側を離れて、誰よりも大切な君に暴言を吐くことだって出来た。
───本当は、ずっと一緒にいたかった。
何よりも願っていたのは、君の側にいることだったのに。
そんな気持ちを押し殺して、相手の平穏を願えるほどに、好きだった。
「ねぇ私たち、もう自分を犠牲にするのはやめようよ。サンジくんの犠牲の上には私は幸せになれないの。あんただってそうなんでしょ?」
サンジはぐしっと鼻をかいた。
「ナミさんが俺の為に、辛い思いを我慢するなんてもうごめんだよ。」
うん、とナミがサンジの前に一歩進む。
「もう私はしたくないことに口をつぐんだりしない。あんたの為なら何でもしたいと思ったけど、あんたが嫌がる事をするのは私も嫌だし。」
ナミはサンジの胸にとんと飛び込んだ。
それはとても勇気の要ることだったけれども、しばらく彷徨った手がしっかりとナミの体を包む。
「愛してる。信じられないくらい、俺は君を愛してる。」
「私も。」
ずっと近くにいたはずなのに、すれ違って傷つけて、また近くに戻って来た。
今度は心に触れられるほど近くに。
相手は自分の一部だから、相手の痛みがわかるのだと思う。
同じ痛みを抱えて生きる。
それが愛する人と決めた道。
「『今この時から最期の日まで』⋯⋯」
「⋯⋯?何か言った?」
「ん?いや、何も」
つかの間の平穏に、恋人は惰眠をむさぼる。
手を繋いでナミの頭がサンジの肩に預けられていた。
ジェルマの王族には言い伝えられた言葉がある。
その言葉は生涯を共にする人にのみ言うことが許される。
科学を信じ、宗教を持たぬジェルマの唯一の不文律。
俺はもうヴィンスモークじゃない。
けど。
この言葉を聞いて欲しいんだ。
生涯変わらず愛し続けると誓う言葉を君に。
「ナミさん。おれ、料理も上手いし、ナミさんだけが好きだし、強いし、結構顔もいいと思うし」
「自分で言う?」
笑うナミの前にサンジが跪いた。
革靴が軋む。
その手を取り、愛おしそうに触れた。
大切なものを壊さないように優しく。
「損はさせない。ずっと一緒にいたい。だから、おれのお嫁さんになって欲しい。」
「えっ⋯⋯?」
「きっと結婚しなくたって、ここにいる限りおれと君はずっと一緒にいると思うけど、だけど君をおれのものにしたいんだ。おれも、君のものになりたいんだ。」
お互いのものになる。
その言葉はナミの胸を打った。
嬉しいと思った。
それに───憧れていないと言えば、嘘になる。
「君を幸せにする。」
そう言ったサンジの顔が緊張している。
嫌だなんて言う訳ないのに、ナミは笑ってしまう。
「嫌よ。」
「へ⋯⋯!?」
「私が!あなたを幸せにする!私もう幸せいっぱいだもん!」
「ナミさん⋯⋯!それじゃおれだってもうめちゃくちゃ幸せだし!!」
両手を握る恋人の手が暖かい。
「じゃあ⋯⋯俺と結婚してくれるの⋯⋯?」
「サンジくんしかいないわよ。」
そう言ってキスをする。
愛という言葉をよく知らない。
でも、この気持ちに名前をつけるとしたらそうなんだろう。
愛は時に残酷だ。
痛みをもたらすし、傷もつける。
けれど、育てることもできる。
枯れかけた花に他の誰かが水をやることもある。
そして咲くことは叶った。
全てを抱えながら、2人は生きる。
愛がある限り、これからもずっと。
End