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9.世界は美しい
「どうして、お前が、ここにいる⋯⋯?」
恋に破れ、イチジは帰路につこうとしていた。
船に乗り込もうとした時だ。
母のように美しく、強い人がイチジを呼び止めたのは。
「ハァ、ハァ、間に合って、よかった⋯⋯」
息を切りながらナミは腰を曲げ、膝に手をついた。
「これを⋯⋯」
渡したくて、と、かろうじて片手を掲げる。
「手紙⋯⋯?」
「そう、返事、書いてなかったと思って⋯⋯」
宛名の自分の名前を見て、こんな字を書くのか、と思った。
緻密で、繊細で、ナミらしい字だった。
手紙に返事が来るとは思っていなかったので、思わず自分の書いた内容の記憶を辿る。
鮮明に思い出すと恥ずかしい気分になる気がしたので、イチジはごまかすようにそれを受け取った。
「ありがとう。」
───サンジと幸せに。
そう思いながら、別れを告げた。
目まぐるしく日々は過ぎ、王家の血を継ぐ長男には様々な任務が課せられていた。
それは、海賊にうつつを抜かした罰であるかもしれなかったし、周りが忘れさせようと気を使ったのかもしれなかった。
依然、ナミの手紙は読まずに大切にしまってあり、『何故すぐ読まないのか』『何故寝かせて熟成させようとしているのか』そうイチジにつっこめる人材はここにはいない。
ただイチジという人間の変化を感じ、周りにも影響を与えているようではある。
ある時は
「ニジ。作ってもらった食事には感謝せよ。給仕長を困らせるな。」
「ヨンジ。お前も少しは本を読め。四男であるからと言って、王家の義務は軽くはない。お前の支えが必要だ。期待している。」
「レイジュ。⋯⋯部屋に花でも飾れ。」
と言った具合で兄弟たちに絡み、周りを困惑させているのであった。
『今あいつにこやかに笑ってなかった?』と兄弟たちが物議を醸すのも日常になった。
すると、王家の、イチジの求心力は急速に高まり、国民から圧倒的に支持される存在になった。
元々の人気に人間らしい優しさが備わり、またどこぞの姫を一途に想い続けているらしい、とまことしやかな噂が広まったことで、ヴィンスモーク家第1王子の名声はより高まった。
イチジに関する書籍や創作は溢れんばかりだった。
本人には知る由もないことだが。
そしてその日、唐突に手紙を読む時は来た。
レイジュに手紙を見られたのだ。
「ちょっ⋯⋯イチジ、これいつの?よ、読んだの?」
封が切られていない手紙を見てレイジュが恐る恐る聞いた。
差出人はナミ。
───えっ、ナミちゃんに会いに行くって言って帰って来てから結構日が経ってるけど大丈夫なのかしらこれ。
「3ヶ月前に、別れ際に渡された。まだ読んでない。」
「なんで!?」
レイジュはイチジの言葉を理解できずに声を上げる。
イチジは少し考えて言った。
「⋯⋯何かもったいない気がしてな⋯⋯。読んだら終わってしまう。読み終わるのが怖いんだ。それに初めての手紙の返事だ。こう言うものは時間がある時にゆっくり読もうと思って───」
「今すぐ読みなさいよ早く!!!」
その手紙が大切であることはわかった。
わかったけれども、これはやり過ぎだ。
「ナミちゃんはすぐ読んでもらえると思って手紙を渡したんじゃないの?その気持ちを無下にしてるのよあんたは!ナミちゃんを想うなら早く読んであげなさい!」
「そ、それもそうか⋯⋯」
レイジュの剣幕に押され、イチジは封を切った。
柑橘の香りが、ほのかにした。
優しく凛とした香りが。
⋯⋯
⋯⋯⋯⋯
⋯⋯⋯⋯⋯⋯
「!?」
手紙に目を通したイチジが口元を片手で覆う。
何度読んでも、これは。
「レイジュ。」
レイジュはドキドキとしながら手紙を読むイチジを見守っていた。
「船を借りたい⋯⋯お前のが一番速い⋯⋯。」
「!!いいわ。もちろん、使って。でも⋯⋯でも、私も連れてって!」
完全に野次馬と化したレイジュは葛藤した結果、これは見逃せないとばかりについて行くことを熱望した。
もちろんレイジュの船なのでイチジは了承した。
世界中で、グランドラインを漂う海賊船の居場所を正確に割り当てられる科学力を持つのはジェルマだけだ。
そしてイチジはそれを、愛する人に会いに行く為に使う。
「⋯⋯遅いわよ。」
「すまん。」
笑うナミにイチジも微笑む。
サンジは当然嫌な顔をしたが、大量の手土産を持ってきたイチジたちを一味は和やかに迎えた。
肉や酒、貴重な鉱物や北の海の名産をイチジが説明した。
“女に優しいサンジ”が姉・レイジュへする塩対応に周りが驚いている。
それでもしっかりと2人をもてなす飲み物や食べ物が出されている。
イチジがサンジの食事を口にし、美味いと言った。
ルフィがだろぉ?と囃し立てる。
サンジは照れ臭そうに背を向けた。
皆、笑顔だった。
「衛星ねぇ⋯⋯世界政府が狙って来そうね、その技術。」
この世界でその技術は稀有であり、有用性は計り知れない。
どうやってこの船の居場所を知ったのか聞いて、ナミは納得して言った。
イチジとナミは海を見ながら話していた。
欄干に手をかけ、夕風を受ける。
「昨日手紙を読んだ。」
「え?私が渡した手紙?」
「そうだ。だから⋯⋯遅くなってすまなかった。」
「全然いいけど、随分寝かせたわね。」
くすくすとナミが笑う。
手紙には───感謝の言葉が書かれていた。
道を踏み外していた私に、気づかせてくれたこと。
変わったイチジに驚いたこと。
できれば、また会いに来てくれたら嬉しいということ。
イチジはもう、不用意にナミに触れたりはしない。
相手を尊重し、敬意を払うことができる。
「来てくれてありがとう。ホールケーキ島ではあんな風に別れたし、こないだも⋯⋯。」
ナミが指を組む。
「正直に言うと、今はまだ自分の気持ちとかわからない。サンジくんにも同じように話したの。
ゆっくりとやって行きたい。ゆっくり、自分の気持ちに向き合いたい。」
ナミは素直な気持ちを話した。
「あんたの時間を無駄にしたくはないんだけど、でも、あんたに言われたこと、びっくりしたの。変わったわね、イチジ。それが私のおかげだって言ってくれて、嬉しかった。」
少し照れてナミは俯いた。
欄干にかけた自分の腕を見る。
「でね、そしたら、私あんたに会いたいなって思ったの。
わからない気持ちの中で、ただ一つ⋯⋯」
2人は並んで立っている。
寄り添いも、触れもしない。
『好き』や『欲しい』とも違う。
『また会いたい』。
「⋯⋯また会いに来ても、いいのか。」
「海軍に尾行されないようにしてね。」
ナミが笑う。
「レイジュって素敵な人ね。私あの人好きなの。」
「サンジくんがいつもは見せない面を見せるのも好きだし。」
「あんたの笑った顔も好きよ。」
「おれが?笑ってる?」
「自覚ないの〜?」
ぽつりぽつりと2人は話をした。
他愛のないこと、夕日が綺麗なこと。
イチジは夕焼けに照らされる海を見る。
水面がオレンジ色に輝いていた。
ああ、世界は美しい───
なにかを美しいと思う気持ちなんか、知らなかったはずだった。
母上のベールを被るナミを見た時も、そう思った。
あの言葉を復唱するように言ったあの時。
『今この時から最期の日まで。
我らはここに誓う。
互いの罪を許し合うことを。
痛みと幸福を分かち合うことを。
私たちは互いの一部。
死が2人を別ち、どちらかが一方を見送るまで。』
『⋯⋯素敵な言葉。』
『⋯⋯ただの言葉だ。』
今ならその言葉の意味がわかる。
許し合うこと、痛みと幸福を分かち合うこと。
それは人間の美しい営みだと思う。
ゆっくり、ゆっくりと進んで行きたい。
まだ2人は、歩き始めたばかりだから。
イチジは思った。
この想いが成就するにせよ、しないにせよ。
「きっと、お前が特別であることだけは、変わらないと思う。」
イチジの言葉に、ナミが間の抜けた声を出す。
「なんで?」
「感情を教えたからだろうな。」
「なんか雛の刷り込みみたいね。」
小さなひな鳥を思い浮かべて、ナミが言った。
「恐怖を感じないように作られていたのに、今はお前を失うことが怖い。
でも、父上は間違っていたと思う。
恐怖を感じないことよりも、失うことが怖いものを守る方が、人は強くなれる。」
ホールケーキアイランドで、サンジ達を逃した時、力が湧いては来なかったか。
愛する者を守る時、人は持っている力以上のものを発揮できる。
自分の為よりも、誰かの為に生きる時、自信と幸福が自分をより強くするのだ。
ナミはイチジの横顔を見た。
イチジはナミが思っているよりもずっと───成長している。
「もう、やになっちゃう。」
私は何も進歩しないのに、どんどん先に進んでいるって気がする。
「それは私のおかげなんかじゃない。イチジが頑張ったからよ。
きっとさ、感情は抑え込まれていたのかも。きっかけはあったのかもしれないけど、殻を破って出てきたのはあなた。本当は優しい人なんだって、今ならわかるもの。」
披露宴会場に共に行った時、仕草に品と教養があると思っていた。
あの時の気遣いや提案は、優しさから来るものでもあったかもしれない。
「そんなことはない。お前が親鳥だ。自信を持て。」
イチジが驚いたように言うのでナミは笑った。
「イチジって可愛いわよね。」
「は?」
傷ついた心が癒えて行く。
ゆっくりと歩幅を合わせてくれる。
間違っても休んでもいい。
私たちは許し合い、傷みも幸せも、分け合って生きる。
同じ景色の中で、隣に立って、歩く。
ああそうだ。
───世界は美しい。
END