novels2
□3731
6ページ/9ページ
3731
6.壊れた人形
「わかってると思うけど、ナミちゃんに確実に読んでもらえるとは限らないのよ?」
レイジュは船に乗り込もうとするイチジに念を押した。
自分がサンジにしたこと、ナミにしたことを忘れてはいないだろうに、人が変わったような弟に戸惑うのだ。
手紙にはナミへの偽りのない気持ちと、謝罪があった。
無理強いをしたことや、嫉妬に駆られたこと、ナミの幸せを願っていることが書かれていた。
イチジの心に、何か革命的な変化が起こっていることを、レイジュは研究者の1人として感じる。
そんな変化が現れるイチジが、羨ましい。
自分よりも大切な人を想う気持ちを、自分たちは小さな頃に失っているのだ。
それはある意味、自分たちも被害者だということを指すかもしれなかった。
けれど、それで人を傷つけていい理由にはならない。
それをイチジは、本当の意味で理解できたのかも。
「それでもいい。」
手紙が読まれようと読まれなかろうと、読む前に破り捨てさられようと、それは自分の手を離れた瞬間から相手に委ねるべきものだ。
自分が前に進むには、こうすることが必要だった。
多くの間違いを犯し、多くのものを傷つけた。
物事に正解はない。
したことを取り消すこともできない。
けれど、彼女を想う自分は、少しでも善い自分でありたかった。
過去を悔い、自分の常識を疑った。
生まれた環境がそうだからではなく、自分がどうしたいかを考えるようになった。
例え報われず、卑小な自分の想いを笑い飛ばされようとも、もう同じ過ちを犯しはしない。
自分はまだ、歩き始めたばかりなのだから。
それを教えたのは。
「ただ一目会いたいだけだ。」
想いを伝えるとしたら、それは感謝だ。
ようやく、自分の道を歩いて行けることへの。
ナミはその日、食事に来なかった。
ゾウに向かう航海はもうあと数日のうちに終わる。
まだ一味が揃わない食卓にナミが欠ける穴は大きく、心配した乗組員たちが騒ぐ。
それを宥めるのはコックの役目。食事を持って行くのもコックの役目。
それをしなければ勘ぐられることは間違いなく、サンジは盆を持ち女部屋のドアの前で俯いていた。
ごめん、ナミさん。
謝ってももう取り返しのつかないことを、何度も何度も、おれは。
醜い嫉妬だった。
それは、向き合わねばならないことを果たさなかった、自分への憤りでもあった。
君の気持ちに向き合わなかった。
自分のことを守るのに精一杯で、自信がなくて、信じられなかった。
そうしているうちに、離れ離れになった。
ずっと一緒にいられると思っていた奢りの上に、おれたちの関係は成り立っていた。
君や仲間を守りたくて結婚を受け入れたが、そのせいで君はイチジの元へ。
見初められるのは、よくわかる。
おれも君を初めて見た時、そう思った。
君をただの女性じゃないと気づく気持ちは、おれにはよくわかるんだ。
だけど君は、一緒に長い時間を過ごして来た君は、本当に、本当に可愛くて、かっこよくて、素敵で、
優しいところも、善良なところも、おれに向けてくれる信頼も、その内面の美しさ全てが好きだった。
なのに、ごめん。
おれが君の想いに応えないばかりに、こんなことになってしまった。
「ナミさん、食事、持って来た。」
ドアを開けると、真っ暗な部屋の中で君はベッドに横になっていた。
こんなに痩せていたっけ?
目は虚ろで、光がないので余計に顔色が悪く見える。
返事はなく、ゆっくりとこちらを見て、また天井に視線を戻した。
何にも無関心なその表情に、
サンジは背中に汗が滴るのを感じた。
ぴくりとも動かなくなった彼女のまぶたは重く、息は薄く、体温を保つこともままならなかった。
異常だった。
サンジは目の前の人が壊れたことを受け入れられなかった。
自分ならいくらでも壊れていいと思っていた。
なのに、壊れたのは自分ではなく彼女だった。
嘘だ。嘘だ。彼女はずっと自分を受け入れてくれていた。
まさか、そんなはずない。
きっと笑ってくれる。
ナミさんは笑ってくれるはずだ。
おれが「笑って」と言えば───
「ナ、ミさん⋯⋯?」
反応はない。
こっちを見て欲しくて、頬に触れる。
冷たい肌に背筋が騒ついた。
「笑って⋯⋯」
そう言うと、
ナミはサンジの方を向き、にこっと笑った。
サンジは肌が粟立つのを感じた。
君の本当の笑顔を知っていた。
病床で笑う人を知っていた。
その優しい微笑みとも、心からの笑顔とも、その顔は違う。
悲しみや絶望や、彼女が感じる全ての感情を殺した笑顔だった。
大切な人の為に嘘をつき続ける君がする笑顔だった。
こんなに酷いことをしたのは、一体誰だ。
ずっと、君はおれを受け入れ続けて、心に嘘をつき続け、無理をして、本当はしたくないことを、本当はされたくないことを受け入れて、そんなにもおれのことを想ってくれていたのに、おれは君の気持ちに向き合わず、自分のわがままをどれだけ受け入れてくれるかを試した。
サンジは泣きながらナミの手を握った。
冷たくて今にも消えてなくなりそうな人に縋った。
「ごめん、ナミさん⋯⋯っ。
もう、おれの言うことなんか聞かなくていい。したくないことはしなくていい。
おれはもう、大丈夫だから、君が無理をしなくても、ちゃんと立てる男になるから。だからお願いだ⋯⋯」
そんな顔しないで。
本当のナミさんに戻って。
「ん⋯⋯だめよ、サンジくん。」
ナミが口を開いた。
「私のとこに来ちゃ、プリンが悲しむわ。私は大丈夫だから、奥さんのとこに行ってあげて。」
嫌にはっきりとした声音だった。
萎えた体とは裏腹に、物分かりのいい女を演じているような、明るい声。
「プリンちゃんとは、何もないよ。結婚しなかったんだ。
ナミさん、どうしたの?忘れちゃった?」
サンジはポロポロと涙をこぼす。
ナミの口ぶりに違和感と、言葉が伝わらない怖さを感じた。
捻じ曲げられた事実を頑なに信じているその歪みが、言い知れない恐怖をサンジに抱かせる。
ナミは何を考えているのかわからない顔で言う。
「?プリンにプロポーズしたんでしょ?それに、プリンのこと可愛いって言ってた。ずっと気にしていたし、プリンもあんたが好きだって言ってた。
⋯⋯もし私がプリンなら、違う女のとこに行くのは嫌だもん。
だからもう、私のことは放っておいていいのよ。」
サンジは涙を留められないままナミの手を握る。
「ねぇ、ナミさん、おれが好きなのは、君だよ。君だけが好きだよ。愛してる。お願いだ、信じて欲しい。」
心臓が速くなる。
どうか伝わって。
そう願いながらナミの顔を見る。
「大丈夫よ。わかってる。」
ナミはにこりと笑った。
「早く、本当に好きな人のとこに行きなさい。いつまでも私に執着してちゃだめ。私、わかってるから。もう、ちゃんとできるから。」
好きな人に体だけを奪われた。
心が置き去りの行為は胸が張り裂けそうだった。
記憶の前後が曖昧だ。
思い出すことを拒否している感覚もある。
母親役や、恋人役や、妻や、仲間や、都合の良い女、どれにだってなってあげたかった。
サンジが望むなら、どんな役目も果たしてあげたかった。
けれど、サンジはもう自分以外のたった1人を決めてしまった。
ならば、私はそのどれにももう、なれない。
───本当の私って、どんなんだっけ?
わからないことを考え疲れて、ナミは眠った。
Next