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□Days
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「ルハナー、風呂あがっ…」

風呂から上がって寝室に行くと、ルハンはベッドに腹這いになっていた。スマホを見ているのかと思ったけれど、違った。枕の上に載せた手のひらの中にこっそりと載せられているのは。
あの日渡した、小さな輪っかだ。銀色の。俺は吹き出しそうになるのをぐっとこらえて、知らんふりしてドアをそーっと閉めた。

指輪を渡していわゆるプロポーズをしたのが約ひと月前。身に付けて出掛けている姿ももう何度か見たけれど、あんな風に取り出して眺めていることを知って、俺はだいぶ、いやかなり満足した。気の緩んだ、あどけない横顔がいとおしかった。

満ち足りた気持ちでドライヤーをかけていたら、風呂に入りにルハンが部屋から出てきた。

「出てきたら教えろよ〜」
「ごめん、寝てるかなと思って」
「寝てないよ、雑誌見てただけ」
「ふーん…雑誌ね…」

中国人の男はまずやらないそうだが、普段ルハンは冗談だとしても甘ったれた喋り方もしないし、態度もしない。男っぽい振る舞いを好む。だからこそさっき目撃した瞬間との激しいギャップに、俺は堪らなく喜びを感じてしまうのだ。服をぽいぽい脱ぎながら、ルハンは鏡ごしにこっちを訝しげに見てる。

「そんなに風呂気持ち良かったの?」
「へっ?ああ、うん…」

鏡に映る俺は、しまりのない顔をしていた。



*




Baozi and hisdeer 11

Days.





季節は足早に進み、上海にも厳しい冬が訪れた。年末年始もゆっくりするどころか俺もルハンも仕事に終われ、慌ただしくも充実した日々を過ごしていた。


そのつかの間の休みに、ショックなことがあった。
休日である土曜の昼下がり、ソファに横になってゴロゴロしていたら、ルハンが着替えて出掛けていこうとした。

「どこ行くの?」
「ちょっと、車で…」
「俺も行くよ」

起き上がると、ルハンが一瞬固まった。


「あー、えっと、たまには、一人で出掛けたいかな〜って…」


明らかに、"着いてこないで欲しい"と言わんばかりの苦笑いを浮かべて。


「あ、そう…。いってらっしゃい、気を付けて…」
「うん、夕方までには帰って来るから」

ぎこちない表情を貼り付けたまま、左手の指輪をきらきらさせて、ルハンはいってきまーすと手を振って出掛けていった。

ぽつんとリビングに取り残された俺は、味わったことのない脱力感を味わっていた。


「たまにはひとりで出かけたいなんて、初めて言われた…」


知り合ってから今日まで、俺がどこに行くにもヒヨコのように、時には子泣きジジイのようにくっついてきたルハンが、俺の、この俺の付き添いを自ら断ったのだ!

軽く衝撃を受けたものの、頭の切り替えが早い俺はすぐさま考え直した。人間誰しも一人になりたい時はあるだろう。ルハンの場合はそれが現れるのが遅かっただけだ、うん。

一度目は自分をそう納得させた。ところが、次の週、その次の週も、ルハンは一人でいそいそとどこかへ出掛けて行ったのだ。こっちも二回目からは着いていこうか、と言い出しにくくなり、ルハンもどこへ行ってきたのかは言わないままだ。

行き先も目的も気になって仕方がないけれど、それ以外はいつも通りだし、機嫌が悪かったり何かに悩んでいる様子もない。詮索するのも格好悪くて、無理して黙っていた。




*



春節も終わった二月のある日。研修のためにソウルに出張に来ていた。一日缶詰めで疲れたけれど、夜は久しぶりにジョンデと待ち合わせて飲みに行く予定があった。

「先輩お疲れさまです!」
「お疲れさま」

待ち合わせ場所につくと、先に来ていたジョンデは相変わらずの人好きのする笑顔で頭を下げた。

「いつもの店でいいですか?一応予約してました」
「うん、ありがとう」

俺がルハンに秘密にしていることはさして多くないけれど、この店はその数少ない秘密かもしれない。ジョンデと俺が飲みに行くときの行きつけの店。秘密にしている訳じゃないけど、あえて教えてもいない。あ、言っとくけど女の子がいる店じゃないぞ。

「いらっしゃいませ〜お待ちしてました!」

雑居ビルの地下にあるその店は、ジョンデの学生時代の友達二人が営んでいるこじんまりした店だ。料理はジャンルを問わず、イタリアンもあるし、エスニック系もある。いわゆる多国籍だ。何を頼んでも全部全部うまい。

「ミンソギヒョン、久しぶりですね、どーすか最近?!」

この天井に頭がぶつかりそうな位背が高い店員はチャニョルという。これまたずいぶん人懐こい性格で、通ううちに俺まですっかり仲良くなった。

「なんも変わらないよ、フツーフツー」
「またまた〜!昇進したって聞きましたよ!おめでとうございます!」
「はは、ありがと。とりあえずビール二つ」

チャニョルが厨房に下がると、ジョンデがかばんから書類を取り出した。

「先輩聞いてください、昨日決まったばかりなんですけど…」
「なに?」

手渡されたのは、企画書だった。

「僕、新しいプロジェクトのリーダー任されることになったんです」
「おー!おめでとう!」
「ずっと企画案出してたやつで…やっと通ったんです」

恥じらいながらジョンデは打ち明けた。内容も面白いし、興味深い。

「すごいな、へぇ…俺がお前の年の時にはそんなこと任されたこと無いよ、さすがだな」
「いえいえ、まぁ、頑張りました、へへ」

あんまり顔に出さないからなんでもそつなくやれると見られがちだけれど、ジョンデは影ではコツコツ努力しているタイプなのだ。評価されて、俺も先輩として誇らしい。年の離れた後輩だけど、よく気が合うし、考え方が俺と似ている部分も多くて、今では友人と変わらない付き合いだ。そういえば二人ともB型だし。

乾杯をして、料理が揃い始める。つまみをつつきながらジョンデが俺に尋ねた。

「先輩いつ韓国帰ってくるんですか?そろそろですよね?」
「さあ、何も聞いてないよ」
「えー、昇進しましたし、次の秋の辞令で絶対出ますよ」
「どうかな」

上海に来て二年が過ぎた。まわりからは近々ソウルに帰してもらえるだろうと言われるけれど、別に偉い人からは何も言われていない。それに、上海を離れることを俺が両手を上げて喜べる訳じゃないことは、一部の人を除いては知らない。

「先輩、彼女とまだ別れてないんですよね?よく遠距離で続きますね」
「ありがたいことにな」

誤解しないで欲しい、面倒なので彼女がいることにしているだけだ。誰もいないというと、やれ紹介するだのお見合いだの断るのが大変なのだ。

「ていうか、先輩の彼女の写真いい加減見せて下さいよ〜!」
「やだよ」
「秘密主義ですね〜」
「プライバシーに関わるからな」
「じゃあ〜名前は?」
「秘密」
「じゃあ〜年は?」
「…同い年だよ」

「何々、誰の話?」

料理を持ってきたチャニョルが話に加わろうとする。

「先輩の彼女がどんな人か暴こうと思って、アハハ!」
「マジ?俺も知りたい知りたい!かわいい系っすか?美人?スタイルいい?」
「ん〜〜〜、さあ」

もうチャニョルはジョンデの隣に腰を下ろして仕事そっちのけだ。

「先に好きになったのは?」
「俺かな」
「どんなとこが好きになったんすか?」
「顔」
「アッハハハ!正直!!美人確定でしょ!!」

何がそんなに面白いのか二人はテーブルを叩いて爆笑している。ここまでけして嘘は言ってないぞ。

「スリーサイズは?」
「知らないよ」
「髪長い?短い?」
「短い」
「得意料理は?」
「…麻婆豆腐(混ぜるだけのやつ)」
「おおー!!」

中学生かよって程に瞳を輝かせて、二人は次から次へと質問してくる。

「チャニョラ!」
「はーい、今行く!今度は彼女絶対店につれてきて下さいよ、ヒョン、絶対ですよ!」
「やだよ」

今、奥のキッチンから出てきてチャニョルを呼んだのがギョンスだ。俺に目が合うと小さく会釈してくれたので、俺も軽く手を上げて応えた。寡黙だけど親しくなれば彼も冗談が多い性格で、この店の料理は全部ギョンスが作っていると知った時には驚いた。

チャニョルが持ってきたピラフを、ジョンデがお皿に分ける。スパイシーな、食欲をそそる香りだ。

「倦怠期とかないんですか?」
「けんたいき?」

酔って頬をほんのり赤くしたジョンデに、俺はぽかんと聞き直した。

「はい、マンネリって言うんですかね。そういうの無いのかな〜って。僕、昔それが原因で別れたことありますよ」
「ジョンデが?」
「学生の時、同棲してたんですけど、だんだんデートもワンパターンになったり、お互いの存在が当たり前になっちゃって…僕はそれほど気にしてなかったんですけど、向こうから、もうつまんないって言われちゃいました」
「へぇ」
「落ち着ける関係と、ドキドキする関係って、難しいですよね、お互いそれが心地いいって感じてないと成り立たないっていうか」

ジョンデが自分から恋愛の話をするのは珍しいので、俺はただ黙って聞き入っていた。

「あっ、倦怠期で思い出しました、これは最新情報です!第二営業部の統括部長が最近奥さんに熟年離婚を切り出されて、復縁も無理らしく、ひとり寂しく香港支社に移動するそうです」
「あらら…」
「その流れで、次の秋はおそらくたくさん辞令が出ますね、僕の見立てだと」
「情報早いなー、俺の噂も聞いたらよろしく頼むな」

うちの会社は異動や転勤がとにかく多くて、大体春と秋の二回に辞令が出る。実際は、俺もルハンもまたどこへ飛ばされてもおかしくなかった。

「大丈夫ですよ、次こそはソウルに帰れますって!僕、ほんとにミンソク先輩のこと尊敬してるんです。早く帰ってきて、また一緒に仕事したいです」
「そんなこと言ってくれるの、お前だけだよ」




明日も仕事なので、11時を回った辺りでお開きにすることにした。

「ありがとうございました」
「ごちそうさまでした、全部旨かったよ」

会計をして、レジにお金をしまうギョンスにお礼を言う。お腹も気持ちも満たされた。

「こちらこそいつもありがとうございます。次はぜひ美人の彼女といらして下さい、サービスしますよ」

すましてそう言って、最後にギョンスがニヤリとしたので、聞いていたのかと俺たちはもう一度笑った。





ビジネスホテルに帰り、シャワーを浴びてスマホを見ると、ランプがチカチカと光っていた。おそらくルハンから着信だ。頭をタオルで拭きながら椅子に座って画面を開くと、メッセージがひとつ届いていただけだった。

『ルハン:お疲れ様さま!おやすみ〜』

「ずいぶんあっさりだな…前は電話かかってきたのにな… ん?」


素っ気ないメッセージに、肩透かしを食うとともに、胸のあたりが、モヤっとする。


(マンネリとか、ないんですか?)

(一緒にいても、つまらないって言われて…)


頭に思い浮かんだのは、さっきのジョンデの言葉だった。俺はルハンに対してマンネリだったり飽きたとかって気持ちが全く無いので特に自分に置き換えることもせず、あくまで彼の話として聞き流していた。自分がルハンに飽きられるという可能性があることを忘れて。

週末になると一人で出掛けて行く理由は、まさか…


「ルハナのやつ、俺に飽きたとか…?!」


ガーン、と稲妻のごとき衝撃が走った。

あんなに大事に指輪をしてくれているんだし、それはない(と思いたい…)。

ただし、プロポーズをして、自分の中では一段落ついた感もあり、最近は仕事が忙しいあまりデートも映画か買い物のローテーションだったり、疲れておざなりだった日もあるのは確かだ。俺といるのも退屈で、ルハンは一人で遊びに行ったのかもしれない、誰か友達と会っているのかもしれない。

「よし、帰ったらサービスしてやろう、飽きられたくないし…」

あれこれ思い巡らせていたら、酔いもすっかり覚めてしまった。ベッドに入ったものの、明日も朝から研修であるにも関わらず、悶々として何度も寝返りを打ち、しばらく寝付くことが出来なかった。



*


翌日の夜。

「ただいま」
「おかえりー、遅かったね」
「うん、飛行機遅れてさ…はい、お土産」
「えっ?」

玄関まで出迎えてくれたルハンに、さっそくサービスの一環として買ってきたチョコレートを渡す。

「なんで…?」
「なんでって、お前好きじゃん、ロイズ」
「うん…ありがとう」

ソウルにはしょっちゅう出張に行っているから、最近はいちいちお土産も買っていなかった。そのせいか、ルハンは驚いていた。



食後にテレビを見ながら、ルハンは早速チョコレートを出してきて食べ始めた。

「おいし〜!ミンソクも食べる?」
「今日はいいや、食べな」

二つ、三つと袋を開けて美味しそうにモグモグ食べている姿に、タイミングもいいし、俺は二つ目の提案をすることにした。

「なあ、週末天気良いみたいだし、出掛けない?」
「えっ、あ、えーと、夜だったらいいよ、昼間は出掛けるから」

あからさまに目が泳いでいる。

「じゃあ土曜日の夜飯食いに行こう、適当に予約しとく」
「わーい!楽しみ」

また出掛けるのかよ、と心の中でついムッとしてしまった。いけないいけない、ルハンは喜んでくれたのに。



*
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