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□Paradise
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Paradise



24時間営業のダイナー「パラダイス」にシウミンが姿を見せるのは、たいていが夜の10時頃だ。したがって、アルバイトのルハンは21時半をすぎるとそわそわし始めるのだった。柱を鏡代わりにして前髪を整えたり、分かりやすく時計を何度もちらちらと見てみたり。鏡張りの入口の向こうに光るヘッドライトが待ち人のものではないかと、ドアベルが鳴るたびに期待をこめて振り向いた。なんせ、彼は「次はいつ来る」と告げずに予告なしに店を訪れるのだから。

ルハンはこのダイナーで人気の美少年のアルバイトだった。彼を目当てに店を訪れる客も絶えなかった。女の子のように愛らしい顔をした中国人で、韓国語の勉強をするために大学に通うかたわら、この店でアルバイトをしていた。

「いらっしゃ… シウちゃん!」
「よー」

ネオンを背に、待ち人がドアを開けて店に入ってくる。透けるほど色を抜いた金髪に、揃いの藍色のキャップと作業着がシウミンのトレードマークだった。彼は、ルハンの恋人だ。

 いつもの窓際の席にシウミンが慣れた様子で腰を下ろすと、ルハンはすかさず注文を取りにメモを片手に駆け寄る。

「お疲れ様!待ってた!今日は何食べる?」

店員の癖に、ルハンはシウミンの向かいの席に腰かける。マナー違反だが、それも許される。この時間帯に店長はいないし、そんなことに目くじらを立てる客も店員もいない。何より2人がとても仲の良いカップルであることは、常連なら公認の事実だ。

数日ぶりに見る恋人を、瞳を宝石のようにキラキラと輝かせてルハンは見つめた。この瞳に見つめられて動揺しないのは、世界でもはやシウミンしかいない。

「お前も、お疲れ。うーん…何にすっかな…お前のおすすめある?」
「おすすめ?!えーっとねぇ…えーっと、あ、目玉焼きとグレービーソースのハンバーグかな!!今日はいつもよりグレードがいい肉が入ってきてるってさっきキッチンのやつが言ってたから!」

「じゃあ、それで」
「りょーかい!ライスもつけるね!」

 笑顔でぱっと立ち上がると、ルハンはキッチンへ注文を告げに行った。シウミンは軽く一息をついて帽子を脱ぐと、窓から見える夜空を見上げた。外に立つ木に既に葉は無い。考えているのは仕事のことだった。決められた期日から逆算する。予定が少し押している。生産のスピードを少し上げなければならないかもしれない。仕入れ先にも連絡を入れて、材料の品切れがないかチェックもしなければ。仕事に関してシウミンはとても真面目な男だ。二人は同じ年、19才だった。

 「お待たせ―!はいっ」
「サンキュ」

ぷるぷるの黄色い目玉焼きが乗った、見るからにジューシーなハンバーグ。甘く香ばしいにおいも最高。お昼にパンをかじったきり、この時間まで何も食べていなかったシウミンは、よだれが出そうなほど食欲をそそられた。

「コーヒーこっちに置いとくね」
「暇ならお前も座っとけば」
「いいの?」
「うん、いろよ」
「じゃあ、いるね」

 こうしてルハンは客が少ないことをいいことに、店員でありながらしばしばシウミンの食事に付き合った。小柄で、どこか小動物のような雰囲気を持つ彼が、大きく口を開けて何かを食べる姿を見るのがルハンはとても好きだった。シウミンが食べると、どのメニューでも美味しそうに見えるから不思議だ。両手で頬杖をついて、ルハンは幸せそうにシウミンを眺めていた。

 シウミンが食事を終えても、本日の客足はまばらだった。時々注文を取りに立つ程度で、ルハンは勤務時間のほとんどをシウミンの席の向かいに座って過ごした。もちろん注文を取る以外にもアルバイトの仕事はある。これでは給料泥棒だ。しかし恋するルハンにそんな指摘は無意味だ。

「シウちゃん、次、その、いつ会えるかな?一緒に、見に行きたい映画があるんだ」
「そうだな…」

 2人のデートは、いつもシウミンの仕事の都合がまず優先だった。学生と社会人。立場が違うのだから、ルハンはそのことに不満はなかった。ないはずだった。

頭の中を、さっきの仕事の予定がよぎり、シウミンは答えに詰まった。しかし、目の前で指先をいじりながらいじらしげに返事を待っている恋人を前に、断れるシウミンでもなかった。

「週末、日曜の午後ならいいよ。夜からはまだ仕事があるんだけど、それまでなら」
「やった!ありがとう!チケット取っとくね!」
「うん」

一見、シウミンは口数も少なく、硬派でそっけなく見える。社会人で、プライベートと仕事をきっちりと分ける性格のためだろうか。だからルハンは知らなかった。さっそくスマホで映画のチケットを取る自分の姿を、シウミンがコーヒーカップに口をつけながら、愛おし気に眺めていることに。

ダイナー「パラダイス」のネオンは電気代がかかり過ぎている。暗闇に眩し過ぎる。でも、限られた時間に恋をする二人には、ちょうどいい輝きかもしれない。

 

2人が出会ったのは、この春のことだった。ダイナーでのアルバイトも2年目に入り、毎日のように知らない女の子から店で告白をされることにルハンがうんざりして職場を変えようかと思っていた頃だった。客には近所には住む家族や学生もいるが、メインは近所の高速道路を走るトラックの運転手だ。立地が良いこの店には、常連も多い。

ある晩、珍しくブルー一色に塗装された一台の4tトラックが店の前に止まった。そのドライバーが、他でもないシウミンだった。

お互いにひとめぼれだった。自分が知らない未知の世界を、誤魔化されることない真実を、まっすぐに伝えてくれるような、猫のような釣り目の瞳。

この世界の優しさと悲しみの間で繊細に揺らぐ、長いまつ毛で彩られた煌めきに満ちたつぶらな瞳。視線がぶつかると同時に、2人の世界は足元からひっくり返った。運命の出会いだった。探していた心のかけらのピースを、ようやく見つけた瞬間。
 
といっても、初めは店員と客として、親しくしている程度だった。店のモニターに映るサッカーの中継を見て熱心に語らったり、ルハンが大学の世間話をして聞かせる程度の。

先に行動を起こしたのはルハンだった。ある時客の女性が、シウミンを口説こうとしているのを目撃してしまったからである。

アイドル顔負けの顏をしているルハンがモテるのは周知の事実だが、一人静かにコーヒーを飲むシウミンの横顔がシックで男らしいのも、気付く人には気付く事実だった。

口説き文句にシウミンがなびく様子は全くなかったけれど、その事件(といって差し支えない程度にはルハンにとって大きな出来事だった)により、ルハンは自分のシウミンへの恋心を自覚したのである。シウミンの隣にいるのは、いつだって自分でありたい。他の誰かに、その場所をとられたくない。もっとシウミンに近づきたい、彼のことが知りたいと。

 告白されるばかりでルハンは自分から誰かに告白をするのは初めてのことであった。どうしていいか分からなかった。自分は店員。シウミンは客。二人きりになって、親密に会話をするチャンスなどない。

ありきたりな方法だった。ある晩、シウミンがいつものように食事をして会計を済ませて店を出ると、一度は見送ったルハンは、ドアを飛び出し、後を追った。駐車場は眩しい。さっさと歩いて、シウミンはトラックの高い運転席に片足をかけていた。

「待って、シウちゃん!」
「ルハナ…?」

 きょとんとして、シウミンがかけていた足を下ろす。ダイナーの赤いエプロンは、ルハンの甘い顔立ちによく似合っている。

 「あ、あの、これ…」

 ルハンが差し出したのは、レジから勝手に持ち出した10%オフのクーポンのチケットだった。裏面にハングルで自分の名前と、電話番号を書いた方を見せて。

 「あの、えっと」

 シウミンが猫目でクーポンと自分の顔を交互に見ている。ああ恥ずかしい。赤面したルハンはそれ以上何も言えなかった。ポケットにつっこんでいた手を出し、シウミンはクーポンをしっかりと受け取ってくれた。

 「お前の、電話番号?」
「うん」
「かけても、いいの?」
「あ、うん、その、もしシウちゃんがよかったら、かけて欲しいなって、もっとしゃべりたいなって、思って」

「分かった、連絡する」

小さく笑って、シウミンは確かにそう言った。俯いてもじもじしていたルハンが、ぱっと顔を上げた。春にしては寒い夜であったけれど、シウミンの赤くなった指先に、ルハンの名前はしっかりと握られていた。次の日の夜、シウミンからルハンのスマートフォンへ着信があった。シウミンらしい、シンプルで分かりやすい愛の告白。シウミンの心も、ルハンと同じであった。これが、2人の始まりであった。

 


運命の赤い糸があるというのなら、2人はきっとそれで結ばれている。前世からの恋人同士というものがあるのなら、2人はまさしくそれだ。まるで磁石のように、パズルのピースのようにして、2人は急速に引き寄せ合い、ぴたりと当てはまった。それは、2人が今までしてきたどんな恋よりも早いスピードで。心の奥深い、自分でも気が付かないようなところまで。

 映画を見たり、ウインドウショッピングをしたり、フットサルをしたり。一番多いのはカフェでひたすらおしゃべりすること。それらが二人のデートの定番であった。ルハンの家をシウミンが訪ねることもあった。たくさん話す日もあれば、ただ側に寄添っているだけのこともあった。多くを語らなくても、お互いにただ共に過ごす時間が心地よかった。

初めの頃こそ、気を使ってよく喋っていたルハンだけれど、次第にシウミンの前では、今まで大切だったあらゆることが無意味に思えた。シウミンと一緒に過ごす時間が、ひたすらに至福の時だった。何をするかは重要ではなかった。

明るく朗らかに見えて、繊細で傷付きやすいところがルハンにはあった。世界には名前の無い悲しみが、いくつも転がっている。それに目が向く人もいれば、気にならない人もいる。ルハンは前者だった。訳もなく切なくなることがあった。心に穴があいているような気がずっとしていた。そこがしくしくと痛んで、時にルハンを眠らせてくれなかった。でも、それを誰かに打ち明けたことも、癒してくれたこともなかった。

ところが、シウミンだけは違った。シウミンはリアリストだ。嘘をつかない。現実を見て、冷静な判断をいつでもする。その実ひょうきんなところもあって、ルハンの前では饒舌になることもあった。夏の日の氷のように涼やかで、猫のようにルハンを楽しませて退屈させなかった。そんなシウミンの存在は、ルハンの隠された心の弱い部分をそっと支えてくれた。初めての経験だった。

これから先も、シウミンと日々を過ごしたい。晴れの日も、雨の日も雪の日も、シウミンと楽しく笑っていたい。幸せな思い出を増やしていきたい。恋に溺れるという表現があるけれど、ルハンはシウミンとの恋に溺れて、もはや救出不可能であった。

 
一方で、シウミンはルハンにただひたすらに優しかった。溺れてるのはルハンだけではなかった。ルハンが笑ってくれると、日常の些細な悲しみも、全て消えていく気がした。ルハンには一粒だって涙を流してほしくなかった。自分のあらゆるものをかけて守ってあげたいと思っていた。それが自分の生きていく使命であるとすら思えた。それほどに、ルハンの存在はシウミンの心を和ませ、幸福にする存在だった。日ごとに、互いの存在が、かけがえのないものとなっていった。
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