その日のジェラールは朝から調子が悪かった。

(まずいな…これは)

体が怠く喉が痛い。だが寝込んでいる場合でもなかった。

塔の完成は間近に迫っている。今が正念場だ。だがあまりに体調が悪く、評議院に向かわせるための思念体を作れない。

ジェラールは仕方なく、評議員のジークレインとして生身で評議院に向かうことにした。

「あら、ジークレイン様。思念体でないなんて珍しいですね」
「まあな」

評議院に着くとウルティアに話しかけられる。一瞬、具合が悪いと言おうかと思ったが、弱みを見せるのも癪なので適当に誤魔化す。

「…今日は部屋で書類書いてる。何かあったら連絡しろ」
「わかりました」

ウルティアが何故かクスクス笑っているのに違和感を覚えながらも自室に戻る。ああは言ったものの当然、書類を書けるような状態でもないため、すぐさまベッドに潜りこんだ。

どれ程時間がたっただろう。ドアをノックする音でジェラール、いやジークレインは目を覚ました。

「誰だ?」
「エルザだ。始末書を出しにきた」
「…入れ」
その日のジェラールは朝から調子が悪かった。

(まずいな…これは)

体が怠く喉が痛い。だが寝込んでいる場合でもなかった。

ジークレインの返事にエルザが書類を手に部屋の中へ入ってくる。

「なぜ、わざわざ俺に出しに来た?」
「おまえといつも一緒にいるウルティア…だったか。おまえが部屋で仕事してるから、そっちに出してくれと」

(ウルティアの奴…)

「ああ。それじゃ始末書は確かに受け取った。さっさと帰れ」
「……それだけか?」
「どういう意味だ?」
「いつもなら始末書に難癖つけたり、ギルドのことで言いがかりをつけたりするじゃないか」
「あいにく俺もそんなに暇じゃないんでね」

エルザが腑に落ちないというような顔をしている。

「わかったら、さっさとーー」

出て行けと言おうとした時、くらりと目眩がしてふらつく。咄嗟に目の前にいたエルザに掴まるが、既に限界だった身体はそのまま崩れ落ちた。

「おい!ジークレイン!ジーク!!」

エルザの自分の名を呼ぶ声を聞きながら、ジークレインの意識は闇に落ちていった。

ーーる。

誰かの声が聞こえる。その声は少しずつ大きくなり、やがて何を言っているかはっきり聞こえた。

ーージェラール。

今ここでは使っていない名。その声が自分の名を呼ぶのを久しぶりに聞いた気がする。

目を開けると白い天井が見えた。怠さが残る身体をゆっくり起こし、周りを見渡す。どうやらベッドに寝かせられていたようだ。

「起きたか。調子はどうだ?」
「……さっきよりは楽になったが、おまえが面倒みてくれたのか?」

よく見ると、サイドテーブルの上には体温計、水を張った洗面器、タオルなどが準備されてた。

「水はいるか?」
「悪いがもらえるか」

ジークレインがそう言うとエルザは少し驚いた顔をした。

「おまえから悪いなんて言葉が出るとは思わなかった」
「俺もおまえがわざわざ看病してくれるなんて思わなかったよ」

ジークレインが倒れたとしても、誰か職員を呼べばいい話。いくら居合わせたからといって面倒を見る義理はない。するとエルザが憮然とした表情で言った。

「……さすがに目の前で倒れたのをほっとけないだろう」

そう。エルザはそういう女だ。目の前で人が倒れれば相手が誰であれ放っておけない。

(そうだ。何も俺が特別な訳じゃない)

そう思いながらも胸が痛む。渡された水を飲みながら、それを誤魔化すようにエルザに何気なく聞いてみた。

「俺のことをジェラールと呼んだか?」
「聞いていたのか…」

明らかにばつの悪そうな顔になるエルザにジークレインは複雑な気持ちになる。

「すまない。あまりに寝顔がそっくりでつい」
「謝らなくていい。それよりーー」
「?何だ?」
「いや、何でもない」

どうかしてる。もう一度、あの声で「ジェラール」と呼んでほしいなんて。

もう捨てたはずの名。もう二度とあんな優しい声で名を呼ばれる事などないと思ってた。

「……もうこんな時間だ。早くギルドに帰った方がいい。列車がなくなる」
「だが…」
「大分調子も良くなった。あとは独りで大丈夫だ」
「そうか…なら帰る」

少し心配そうな表情をしながらエルザが腰を上げる。ジークレインも立ちあがり、ドアを開けた。エルザが部屋の外に出た瞬間、ジークレインに名前を呼ばれて振り返る。

「ありがとう…助かった」

まさかお礼を言われるとは思わず、面食らっているうちに扉は閉まる。数秒固まっていたエルザだが列車の時間が迫っているのを思いだし、慌てて走りだした。

独りになった部屋の中、ジークレインは再びベッドに横たわる。目を閉じると昔のエルザの姿が見えた。頭の中のエルザは優しく、柔らかく微笑んでいる。そして呼ぶのだーージェラール、と。

過去に幾度となく繰り返された光景。なのに今はとてつもなく遠い。それを寂しいと思うなんてどうかしてる。自分から捨てたというのに。

「らしくないな…風邪のせいか」

きっとそうだ。こんな事を考えるのは風邪のせい。治ればこんな感傷じみた思いなど消えるに決まってる。

そう言い聞かせて『ジークレイン』は更に固く目を閉じた。『ジェラール』に戻りそうだった自分を戒めるように。

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