ほんとを見て

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伊坂秋穂の生息場所は、大学構内の研究室だった。
大学に通い始めて、半年くらいで自宅と大学の往復が面倒になったのだ。秋穂の家には、もとから、そんなに自分の物はなかったから、布団だけを持ち込んで寝泊まりしていると、いつのまにかそれが当たり前になって、まるでそれが正しい事であるかのように周りに認知されていた。
注意されるまでと思っていたのだが、教授にさりげなく研究室を使っている事を伝えると、肩を竦められて、ひとつ頷かれただけだった。研究室を自室代わりにしている学生は少なくないんだろう。いちいち注意していてはキリがないのかもしれない。ラッキー。


使うのかどうか分からない文献が詰まった本棚、その狭い通路を進んだ奥にある少し開けたスペースに、大きなソファがひとつ、元々この部屋に備え付けてあった旧式のパソコンと、新しくなったオーディオ。くすんだ色のデスク。それに秋穂が買い足したハブラシや時計、鞄や着替えしかないその部屋を、秋穂は心の中で、「城」と呼んでいた。


配管工事だとか、雨漏りをきっかけとする改修だとか、理由は忘れたけれど、ひっきりなしにカンカンと機械音のする方を見ると、大学の東B棟をすっぽりと覆う骨組みとビニールシートが風にはためく。


「いつ終わるんだろ……」


日本の労働基準法は、あってないようなものらしい。工事というものは普通夕方になれば引き上げるものなのに、東B棟は授業に使われないからか、はたまた工事会社の意向か、夜に入る時間まで作業が行われた。
「うるさいから早めに引き上げて欲しいんだけど」
流石に夜になったら骨組みを登る人はいないけれど、なにか地面にカンカンと打ち込む音は響いている。

工事の音が煩かろうが、鉄骨の間を通る風が唸り声を上げようが、こっそり研究室に居着いている学生に文句を言う権利はない。教授ならともかく。

まあ、一か月とちょっとの辛抱だ。秋穂がそう悠長に構えることができたのは、彼女の城が幸運にも、工事区画の内に入っていなかったからだ。窓を開いて顔を出せば、十メートルほど離れた所に鉄骨が見えるが、少なくとも頭が痛くなるほどの騒音に悩まされることはなかった。
そんな彼女が、工事区画内の部屋に居座っている他の学生の騒音事情を聞いたのは、工事が始まって三日目。文句を言っていた学生たちが騒音に慣れて何も言わなくなったのが二週間目。そして、ぐったりとした顔の彼を目撃したのが、二週間と二日目。


「ほかに空いている部屋はないんですか?」二限目が終わり、秋穂が城に向かっていると、そんな声が聞こえた。廊下を曲がると、声の主の姿が見える。男性だ。ばさばさの黒髪、黒のタートルネックに黒のジーンズと、全身黒一色の服装をしている。


横目で伺いながら、通り過ぎる。


いつも水曜の講義で一緒になる男性だが、今日はいつもの数倍疲れている様子だ。目の下に塗ったんじゃないかというくらい黒いクマが浮かんでいる。

手の平は、キーだこができている。けれど、通り過ぎるときに油絵の具のような香りがした。

どこの学科の人物なのだろうと疑問に思って、少しだけ顔を向けたのがいけなかった。かちりと視線が合う。なぜだか、胸の奥を引っかかれるような違和感を感じて、視線が離せなくなった。


「伊坂さん」


秋穂は覚えていないが、彼の方は秋穂の名前を知っているらしい。

どこかで名乗っただろうか。

もっとも、秋穂の通う大学は芸術系だ。そこかしこに学生が制作した作品が展示されているので、自分が名乗ってなくてもキャプションを見て名前を知られているということはよくあるのだが。秋穂は目立った作品を展示された覚えはない。制作より研究寄りの授業ばかり取っているのだ。

「どうも」

当たり障りのない挨拶を返しながら、秋穂は通り過ぎようとする。

「ああ、伊坂さん、丁度いいところに」

彼が先程話しかけていた人物の方が、秋穂を呼んだ。秋穂が彼の名前を思い出す前に。

「伊良部教授。こんにちは」

「こんにちは。伊坂さん、こちら、柳川博行君」

やながわひろゆき、秋穂も彼の名を口に出して、彼の方を向く。


「あー、泊まり込みで、作品制作をしてる人なんだけど。君みたいに、ホラ、二階の資料庫、使ってる人」


教授の声が、彼の説明をする。

なるほど、彼も居座り組なのか。

秋穂自身は特に興味もなかったので気にしてはいなかったが、彼の方は何度か秋穂を見かけているらしい。

「伊坂さん、相談なんですけど」
「はい、何でしょう?」

「伊坂さんの部屋は、この階の端でしたよね……あの部屋、ネット回線って繋がってますか」

「私は使っていませんけれど。使えると思いますよ」

この質問を耳に入れた瞬間、秋穂の背を嫌な予感が駆けあがった。今すぐに会話を打ち切って立ち去りたい衝動に駆られたが、どうにかこらえて首を傾げてみせる。

礼儀正しいわけでも、優しさでもない。人間関係には細心の注意を払っておきたいという打算的な考えからだ。

けれどやはり、柳川のこの言葉を聞いた瞬間、秋穂は打算も計算も投げ捨てて逃げてしまいたくなった。


「…あの、伊坂さん。…部屋を交換してくれませんか…?」


視界の端の伊良部教授がうんうんと頷く。そのまま教授はあとは二人で話し合えというように掌を上に向けた。


「お力にはなってあげたいんですけど、私も課題があるので。四階になら確か空きがあったと思いますよ」

「四階はネットが繋がってなくて……」


このままだと、本当に気分が悪くて倒れてしまう、と柳川は額を押さえながら言った。柳川曰く、工事の音も、鉄骨による風鳴りの音も苦手らしい、元から不健康そうな顔色ではあるが、今日、輪を掛けて不調そうな様子であるのは、どうやらそれが原因であるようだ。

秋穂は悩んだ。正直、碌に話したこともない男性に、普段自分が居着いている部屋を明け渡すというのはなんだか抵抗がある。

秋穂は軽く手を叩くと、使用者を待っている城に目を向けた。




「柳川さん、じゃあこうしましょう。折衷案です」












「…まさか了承するとは」ソファに体育座り体制の秋穂が、熟考ののちにそう呟いたので、自分の荷物の整理をしていた柳川は少し顔を上げて、すいません、と口に出した。
けれど出て行こうとはしない。


秋穂の提案した折衷案だったが、その内容は研究室を共同で使用する、つまり、ルームシェアをしましょうというものだった。なにも本気でするつもりはなかった。ただ、こう言えば流石に諦めてくれるだろうと踏んでの発言だったのだ。しかしこの柳川博之、男女がひとつの部屋をシェアすることについて深く考えていないのか、それとも、よっぱど煩いのが苦手なのか。了承したと思ったら撤回しないうちに自分の部屋に荷物を取りに行った。

早足で自分の部屋に向かっていった彼は、向かう時より二倍の速さで城にきた。本当に工事の音が苦手らしい。どさりと荷物を城の中に置かれたところで、秋穂は観念して、部屋の半分のスペースを柳川に譲った。

一年以上も自分の部屋のように使っていた一室を丸々渡すよりマシ、という思考になってしまうあたり、秋穂の中で城に対する執着はそうとう強いものであったのだろう。















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あとがき。

夢主の授業傾向を研究より、としていますが、制作関連の授業も少しは選んでると思います。
大きい作品を作るより小物とか服飾とか、コチャコチャしたものを作るのが得意なイメージ。

いや柳川さんが美大生って事実がどうしようもなく胸熱ポイントでしてね
どうしても最初のシーンを大学にしたくて美大に行ってる人に軽くお話聞いてきました。

授業料 めっちゃ 高い

柳川さんのこのクソ高い学費を栗井栄太の活動資金から出してるって思ったらFOOOOOってなるし
保護者(?)代わりの神宮寺さんが出しててもFOOOOOOOOOってなるし
柳川さんが奨学生でもFOOOOOOOOOOOOってなるし
実は柳川さんの実家裕福でこんくらいの学費屁でもないんですよみたいな設定があったらFOOOOOOOOOOOOOOOOOOYHAAAAAAAAAAAAAAHAAAAAAAAA!!!ってなる。私が。




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