ほんとを見て

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柳川は、言い訳のように、自分は少し音や匂い、味に敏感で、あまりに不快な音や匂いのある環境に居続けると倒れてしまうのだと言っていた。
とりわけ音には敏感で、周りの音楽やノイズで体調や興奮度が左右されるから困る。――その一連の話を、秋穂は話半分に聞き流していた。
この時彼の話に注意していれば、彼女が彼に関するある失敗の事を思い出していたかも知れないのだが、それは割愛しよう。結果として彼女は彼とのあるエピソードを、この時点では思い出さなかったし、彼もそれについて言及はしなかった。


明日になったら柳川が部屋の中央を二分するようにカーテンを取り付けてくれるという。
どうでもいいので頷いておいた。

ここまで書けばお分かりかと思うが、この伊坂秋穂、建前と本音の差が激しいいわゆる猫被りだった。猫被りといっても、うまく人付き合いをするためのものなので、可愛がられたいとかそう言う欲はないのだが。


「いわゆる処世術という奴だな。普段の言動を当たり障りないものにしておけば、その分諍い事も面倒事も減るわけだ。人間というものは、出る杭も出ない杭も叩きたがるからな」


ルームシェアを始めてしばらく経って、柳川が淡々とつづった。
だから、秋穂には親しい友人がいない。
面倒に巻き込まれないよう適度に距離を保って、しかし愛想は悪くならないよう猫を被って。


「それでもやっぱり素になる時間は大事だと思うのよ」


体面なく、ソファにぐったりと寝転がった秋穂は拗ねたように答えた。

かすかな風の音が響く。普通の風とは違う、低い唸り。

秋穂は薄く笑って、体重を持たないもののように軽やかに窓に駆け寄って、勢いよくそれを開け放った。風鳴りの低い音が、部屋に入ってくる。

柳川は、素早く自分の耳を押さえた。その様子に、秋穂は意地の悪い笑みを浮かべる。

彼女は人の嫌がる顔を見るのが好きだ。その彼女の本質は、普段は押し殺しているので表に出ない。秋穂だってこんな性格になりたくてなったわけではないのだ。しかし、人の性格とは因果なもので、時折、本人自身が望まぬ方向に向くことがある。自分の中でだけで片付く性質ならいいのだが、秋穂のように他人が関わって来るものはいかんせん、迷惑に繋がるから嫌われやすい。分かってはいるが、直せないから性格と呼ぶのである。
「閉めてくれ、頼むから」
窓から入ってくる風の音に、柳川は露骨に顔を顰める。


「イーヤ」開いた窓を背にして、秋穂は心底愉快そうに口の端を上げる。

柳川は、ふぅと溜め息を吐いてヘッドフォンを机に置いた。

いつの間にか窓の桟に腰掛けた彼女が、当たり障りのない清潔なシャツを着た上体が、挑発するように外に反らされゆらゆらと揺れている。
少し離れた位置にあるカーテンも、はたはたと風に煽られて揺れていた。

放っておいたらそのうち落ちてしまいそうで、柳川は仕方無さそうに彼女の肩を掴んで桟から降ろし、そのまま手を伸ばして窓を閉めたがそれでも音はかすかに漏れる。本当なら彼もこんな騒音が響く大学でなく、居を置いている場所に籠りたいのだが、大学の課題に余裕がない間は我慢だ。

秋穂にとってはいい迷惑だった。思えば秋穂が柳川にいたずらをしたがるのはその辺りの不満の発散も理由のひとつだったのかもしれなかった。


「危ない事はしないでくれ」


秋穂は目を瞬かせた。窓を開けた事よりそちらを非難されるとは思わなかったのだ。
「心配してくれるんだ?」とっさに身を引こうとした秋穂は、もう片方の肩を掴まれて動きを止められた。頬を、近付いてきた柳川の吐く息が撫でて過ぎる。
「初めておれがこの部屋に来たときのことを、覚えているか」
柳川がこの台詞を言うのは、今から本性を出すという合図だ。


秋穂は彼がこの台詞を吐いたあと、逃げたことは一度もなかった。人に心の内を触られるのを嫌う彼が、自分の一部を捧げてくれるのがなんだか嬉しいような気がして。

スイッチを切り替えるように、こころの奥のどろどろとした本性を出す。どちらかがそうしたら、もう片方がそれに合わせる。繰り返すうちに、暗黙のルールになってしまったやりとりは、嘘にまみれて生きる二人には丁度いいつきあい方だった。

普通の恋人のような甘い空気は自分たちは吸えない。互いに、毒の含んだもっと重い息をはいているから、そんな暖かなものは手に入れることができないのだろう。今までも、きっとこれからも。

不満がないわけではないけれど、これ以外のうまい近づき方を、今のところ見つけられていない。


「覚えてるよ。……思い出したよ、ちゃんと」


例えば、適当なことを言って秋穂がその場から逃げだしても、彼は怒りもしないし責めもしないだろう。
悲しむかどうかは秋穂の知る所ではないが、彼は淡々と逃げた秋穂を受け入れるのではないかと思う。だけれど秋穂は、彼の合図を拒んだことは一度もなかった。

愛情より身勝手で、友情より儚くて、信愛より浅い感情で、柳川博行と伊坂秋穂は繋がっている。

それが細い細い糸のような、次の瞬間には切れて落ちてしまいそうな繋がりだからこそ、秋穂は彼を拒まない。

柳川博行と伊坂秋穂を繋ぐ細い糸は、きっと切れて地面に落ちたら見つけることはできない。


「ゆっくり座って話そう。博行君」


細い糸を手繰り寄せて、秋穂はいつものように挑発的に笑う。

そうして彼らは出会ったときに思いを馳せる。











*****











【砦】にて


「うーん……」



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