書籍

□幸福理論
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幸せとは、信じる心のことであり、不幸とは、信じることができないことを言うのだろう。でも、疑いなく、不安もなく、信じ切れる安心、幸せというのは、なかなか難しい。

なるほど、人間は不思議なことを書く、と災籐は開いて本を閉じた。

幸せというものを鬼が語るべきではないのかもしれないが、出来ることなら、平和に、幸せに生きたい。鬼である我が身では、そんな事は無理だろう。

だって、老いる事も、死ぬ事も、病むこともない。その時点で、果たして幸せだと言えるのか、分からないのだから。

死なないことを幸と思うか、不幸と思うか。

「……ねぇ、佐疫。幸せってなんだろうね」

「幸せ、ですか?…、俺にはよくわかりません」

困った様に笑う秀才である教え子に災籐は微笑んだ。

「私はね、幸せは……」

人を愛せることだと思うよ、なんてよく言う。愛したことが無いのに。

災籐は青灰色の瞳を細め、少しだけ乾いた自身の唇を舐めた。あぁ、そういえば、唇を舐める仕草は、ストレスや不安の現れだと読んだ書籍に記されていたな、なんて思った。

未だに幸せについて首をかしげている佐疫の冷たい手を引き寄せ、両手で包み温める。佐疫は冷え性だ。

血流の悪い冷たい指先、低血圧で寝起きは酷く不機嫌。眉にしわを寄せ忌々しげに睨みつける空色の瞳を思い出すが、今の彼のあどけない好青年のような彼とは全くの別物だ。そう考えると何故だか愛しさが込み上げてくる。

「でも、」

佐疫が、少しだけ桜色に色付いた唇を開いた

「災籐さんがピアノを弾いてくださると、俺は幸せ、だと思います…」

なんて、失礼ですよね、と言って恥ずかしそうに頬を掻く佐疫に災籐は微笑んだ

「お前が望むなら、弾いてあげるよ」

白い手袋を外し、災籐はピアノイスに腰をかける。その際、空いていた窓から、淡紅色の桜にしては大きな、林檎の花弁が迷い込んできた。

林檎はこの近くで栽培をしていただろうか、とぼんやり考えながらも、災籐は鍵盤に指を置く。そして、その指は軽やかに鍵盤を弾いた。


林檎の花言葉

「名声」「選択」「評判」「選ばれた恋」そして、「誘惑」


災籐には、この選択が果たして幸せのルートなのか、長く生きすぎて、それすらも曖昧だった。けれど、それでいいのだろう。だって、幸せを享受するには自分という存在は汚れ過ぎてしまっている。

「ねぇ、佐疫」

ピアノのダンパーペダルを踏みながら、災籐は教え子を見やった。

私と共に不幸になってみないかい?

思わずでかけた言葉を災籐は飲み込む。そういえば、随分と昔、人が一生を終えるくらいのそのまた、昔、佐疫に少しだけ意地悪をして、「私といるとお前も不幸になるよ?」とからかった事があった。

その時、幼いながらも、彼は屈託のない笑顔でこう答えたのだ。

『災籐さんとなら、僕は不幸だって大した問題にはなりません』

人は幸福を望む。人は不幸を恐れる。けれど、その不幸がもし、1人でなければ、独りでなければ、幸福にもなれるのではないか。

「災籐さん?」

「……あぁ、ごめんね。何でもない。」

そう言って、青灰色の目をした優しげな獄卒は空色の瞳をした獄卒に微笑んだ。まだ少し肌寒い季節、空が青い、蒼い、昼下がり。
 

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