非物語

□かなりペンシル
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  001


 私立直江津高校に入学してからの二年間は、俺にとって、ただただぼんやりとした日常だったとしか言うことがない。ぼんやりと、本当にうすぼんやりとしか記憶にないほど、抑揚のない日々だったと思う。とにかく、何かをものすごく頑張ったとか、その結果としてひどく悔しい思いをしたとか、得られたものをとても誇りに思えたとか、楽しかったとか、辛かったとか、そういった感情の起伏といったものがない、穏やかでなだらかな高校生活だったと言える。
 例えば学生の本文というべき勉強に関してならば、そこそこにこなして、適度に怠けて、まあだいたい平均点。課題がしんどくなかったわけではないけれど、ものすごく苦労した覚えもない。それは俺がそこそこ優秀な男だということではなくて、単に、失点にならない程度にしかやらなかったというだけの話だ。面倒なことはしない、必要最低限だけ提出する、というのを繰り返して、上にも下にも飛び出さない評価をキープしていた。と言えば、意図的にそうしていたかのように聞こえるが、決してそんなことはなくて、単純に、そうにしかならなかったと言うのが正しいのだが。
 部活にも入らなかったし、趣味と呼べるものもなかったから、無為にだらだらと時間を浪費していたようなものだ。そもそも、何に対してもそれほど興味が持てなくて、熱意を持って取り組めるなにかを見つけることすらできなかったのだから、その結果はまあ当然のものと言える。頑張るとか努力するとかいうことを極力避けてきた結果、心身ともに辛い思いをすることはなかったが、代わりに達成感もなかった。なんとなく日々を消化するようにして、この春無事に三年へと進級した。高校進学までだって特に起伏もないまま歩んできたのだから、我ながらモブキャラの王道を往く人生だと思う。とは言っても、高校生ともなればなんかあるんじゃないかとかちょっとは期待してもいた。劇的な出会いとか、でも、なにも起きなかった。から、こうなんにもないと、がっかりしつつもそんなもんだと妙に納得したりもしている。恐らくこのまま地元の適当な大学に進んで、そこそこの会社に就職して、適齢期辺りで普通に嫁さん貰って平均的な家庭を築いたりするのだろう。
 ───なんだ、そのつまんないヤツ。
 波乱万丈な運命を望んでいるわけではないけれど、ちょっとくらい面白い事件みたいなのがあったっていいじゃないか。そんなこともたまに考える。でもまあ、人々の話題に上るような出来事になんてそうそう出くわすもんじゃなし、たとえ出会ったとしても、基本的にことなかれ主義者で面倒臭がりな自分が、事件になりそうななにかに首を突っ込むとは思えないが。
 そんなわけで、日々はぼんやりとして味気なく、平和的になにも起こらない「昨日の続き」のままでいた。
 そう、石動可成(いするぎ かなり)と話す前までは。


 ゴールデンウィークまであと数日となったある朝、進級して初めての席替えが行われた。それまでは便宜上出席番号順になっていたのだが、気分転換にやろうとか言い出した奴がいて、くじ引きで決め直すことになったのだ。高校三年にもなって、席順にこだわるのもどうかと思うのだが、今回のクラスには有名な女子生徒が二人もいたから、お近づきになりたい輩も多いのだろう。俺は別にどうでもよかったのだけれど、面倒ながらも特に反対する理由もないから何も考えずに引いた。
 引き当てた番号通りに席を移動すると、パーマンと同じ席だった。どの席か気になるけれどパーマンを知らない、と言うのなら、藤子不二雄先生原作のこのアニメのエンディングテーマについて検索でもしてみてくれ。まあ、俺だってそんな古いアニメ自体を観たことはなくて、酔った親父がフルで歌ってなきゃ知らなかっただろうと思う。パーマンがどんな奴かよく知らないし、だいたい同じ席だから何ってこともないのだが。
 それはさておき、新しい席はさっきまでいた席からそれほど離れてもいなかった。ちょっとだけ黒板から離れたという程度の差しかない。周りは結構ああだこうだと喜怒哀楽をそれぞれに表現していて、それなりに沸いていたのだったが、俺にはそんな希望みたいなのは欠片もなかったから、特になんの感慨もなかった。
 件の“有名な女子生徒”は二人とも窓側の列になったらしい。偶然隣の席になったあの娘とラブラブイベント発生、なんてことにはならなかったわけである。別にどうでもよかったけどな。いや、本当に。
 移動先の左は女子で、右は空席だった。新しいクラスには見事なまでに知り合いがいなかったから、誰が抜けているのか判らない。遅刻か欠席か知らないが、登校したらいきなり席順変わっててびっくりするんだろうな。登校ドッキリだ。リアクションが面白かったら、話しかけてみようか。そろそろこのクラスにも友達と呼べる相手がほしいと思っていたし、これはいい機会なのかも知れなかった。
 仕掛けた悪戯に引っ掛かるのを待つような気持ちで、授業中もチラチラと右隣を気にしていたのだが、相手は一向に現れない。二時間目の終わり頃にはもう、こいつは今日欠席なんだなとつまらなくも諦めてしまった。クラス全員にハブられてるとかじゃない限り、誰かが教えてやるだろうから、もう思うような反応なんか見られやしないのだろう。そう気づいたら完全に冷めてしまって、その席に誰が座るのかという興味も薄れてしまった。それに、どのみち相手が女子だったりしたら、それだけでもう気軽に声をかける勇気もないのだ。
 …って、いやいや、ずっとそんなんだったから誰ともお近づきになれなかったんじゃないか。そうやって、小さいけれども絶妙で絶好なチャンスを、ずっと棒に振り続けてきた結果が今の俺なんだ。こういうなんでもない小さなきっかけを積み重ねて、俺は変わっていかなくちゃならないんじゃないか?
 …よし。まずは左隣の子に声をかけるぞ。えーと、誰さんだっけ、この子。わりと可愛いじゃん。でも名前が…、いや、逆にちょっと素っ気ないくらいの方がさりげなくていいんじゃないか? うわぁ、なんか異常に緊張してきた。ごくりと生唾を飲んでしまう。なんでクラスメートに話しかけるだけなのに、俺はこんなにもアガっちゃってるんだ? 右隣の席についてという、なんでもない、他愛ない話題を振るだけだぞ? 気楽に、気さくに、なんでもない調子で…
 
「ぇぇぇ…っと…」
 きーんこーんかーんこーん。
「ぇぇぇぇぇぇ…」
 チャイムが鳴ってしまった。ほぼ同時くらいに黒板側の戸が乱暴に開いて、ガタイのいい教師がどかどかと入ってきた。
「おら、さっさと始めるぞー」
 もういい、慣れないことはするもんじゃない。だから、どうでもよかったんだってば、もう。


 そして、もう隣席のことなど気にも留めなくなった、五時間目の最中。
 英語教師のけして流暢とは言えない発音に欠伸を噛み殺しながら、せっせと板書に勤しんでいたときのことである。不意に、視界の端でなにかが動いた。なんとはなしにそちらに目を遣る。自分の右側の床に、鉛筆が一本、落ちていた。
「……」
 何も考えずに拾い上げようとしたら、ほぼ同時くらいに伸びてきた誰かの指先に触れた。目標の数ミリ上空で、互いの手が止まる。顔を上げて驚いた。
「……え…っ?」
 手を伸ばしてきたのは、右隣(・・)に座った男子生徒だった。
 さっきまで───少なくとも昼休みが終わるまで、そこは確実に空席だった。まあずっと見ていたわけではないから、余所見してる間に来ていた、のだろうか? ───いやいや、ずっとここにいたのに、すぐ横に人が来て気づかないほど鈍感じゃないぞ、さすがに。いつの間に座ったんだ? まさか、授業中に? 確かにそこは廊下側で、出入口の真ん前の席だけれど、だからって途中入室なんかしたら確実に目立つ。先生から注意も受けるだろうし、クラス中がざわついて注目の的になること間違いなしだ。大体、引戸を開けた音もしないなんておかしいじゃないか。
 つまり、そいつは唐突に現れたのだ。本当に、唐突としか言いようがなかった。
 しかも、俺はこいつに全く見覚えがない。
 狼狽える俺に反して、相手はたじろぎもせずに視線を合わせてくる。少し長めの前髪の向こうで、琥珀を埋め込んだような瞳がじっとこちらを見ていた。一筋の揺らぎもない眼差しに、なぜか目を逸らすことができない。

 ───なんなんだ、この()…。

 それは、恐怖と同時になにか恍惚とした多幸感が混じるような、過去に一度も経験したことのない不可思議な感情だった。このままその瞳に魂ごと吸い取られて、この世界から跡形もなく消えていけそうな───そんな風にして消え去りたい、その瞳にはそれが可能なんじゃないか───そんな危うい思想すら抱いてしまう、激烈に奇怪で、猛烈に魅力的な瞳。
「……」
 ふと、その目の形が歪んだ。下瞼が頬の筋肉に押し上げられたせいだ。相手は、薄く微笑っていた。ゆっくりとその唇が開くのを、俺は痺れたみたいに見つめていた。
「……手、どけて?」
 潜めた涼やかな声が、すぐ傍でした。澄みきった湖面を撫でたみたいな声だった。
「あ……。あぁ」
 慌てて退けると、細い指がゆっくりと鉛筆を摘まみ上げた。見とれるほどの所作でもないのに、俺は、やはり目を離すことが出来なかった。
 特に美少年というわけでもないのに、妙に綺麗に思える。全体的に線が細そうなのと、小さく納まった顔立ちが少し幼さを残しているせいだろうか。
 随分長い間見つめていたようにも思えたが、実際はほんの一瞬のことだった。運命的な出会いには時が止まったような錯覚も起こるらしいから、このときは正にそんなものだったのかもしれない。
 気づけば、すでに彼は拾い上げた鉛筆で板書の続きを始めていた。その姿からは、急いで体裁を整えたがためにできる乱れや齟齬など微塵も感じられなかった。当然のようにそこに収まり、自然に教室の風景に馴染んでいる。あたかも最初からずっと授業を受けていたかのように。
 普通(・・)なのだった。
あまりにも「正常」過ぎた故に、かえって異常に感じられるくらいに。

 そして多分、ここから、俺の日常は非日常に変わっていゆくのだ。そうならないはずなどない。漠然と、根拠もなく、なぜか確信めいて、俺はそう予感していた。


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