沖田総司に似た密偵の部下

□9.斎藤の教え -oki-
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「張は一晩帰らなかったんじゃあないか。どうしてだと思う」

「……」

警部補が喋ると煙草の臭いが届く。私は眉根を俄かに寄せた。問いの答えも分からない。

「女を抱いてたんだろ」

「ひっ」

それはそうだ。ゆうべ、張さんは横浜遊郭に行くと出て行った。金を使ったと話していた。それなりの妓を抱いて一晩過ごした。考えれば容易に予測出来ることだ。

「何かおかしいか、男が廓で女を抱いて。お前といてその気になったから場を離れた。それが張の心理と行動だ」

「で、でも……」

「予測出来なかったのか」

「いえ……あの……」

張さんが自分相手にそんな気を起こす訳がない。今でもそう思っているが、現実は違った……のだろうか。納得いかず、今でも張さんの気まぐれな悪戯ではと疑っている。
それにしては押さえつける力が強く、怖さを感じる顔で見下ろしてきた。やはり本気だったのか。私の表情はどんどん複雑になっていった。

「さすがに張は俺を思い出して踏み止まると思ったがな。それに、お前も張程度なら退けられるだろう」

「分かっていてどうして……」

「信頼する相手であっても気を抜くな。気を許すなと覚えておけ」

「それを教える為にわざわざ……仕組んだのですか」

警部補は煙草を外すと長い息を吐き出した。
ゆうべの状況も、仕組まれた事にも、私は不満を曝け出した。

「俺が相手でも変わらんぞ」

「藤田警部補が私に危害を加えるのですか。信じられません、そんなのって」

布団の中で、張さんでなく警部補だったらと考えてしまったが、自分を襲う姿が想像出来なかった。想像出来たのは、何だかんだで優しい警部補だった。恥ずかしくて到底伝えられない話だ。

「有り得ませんよ……」

「例えばの話だ」

ほっ、とする沖舂次が胸を撫で下ろすさまに、斎藤はフンと鼻をならした。


 * * *


懐かしい男を思い出す顔を前にそんな阿呆な事が出来るか、と言うのが俺の本音だ。
沖舂次の不用心さはどうにかしなければならない。武力への警戒は認めるが、色に絡んだ警戒が弱い。

俺は沖舂次の有用性、警戒心を高める面倒臭さ、放置した際の組織への危険など、あれこれと考えて眉間に皺を刻んだ。
警察には長州縁の者、沖田総司に恨みを持つ者がいる。顔が似ているだけで意趣返しの相手に沖舂次を選ぶ、そんな馬鹿が現に存在した。

「いくら警戒しても足りん。親しい相手だろうが男には警戒が必要だと認識しておけ」

「……はぃ」

淋しそうな声を聞いて、俺は沖舂次の肩に手を置いた。

「そう落ち込むな」

沖田が淋しい顔を見せたのは、刀を握れなくなってから。戦いに置いて行かれる、自分は力になれない、そんな時に見せた淋しい顔と、沖舂次の落ち込む顔が重なってしまう。
いちいち部下を励ましてなどいられない。しかしこの顔だけは、目の前から消してしまいたかった。

「全ての男がそうでは無いが、そうだと思って振る舞えと言っているだけだ」

「警部補……」

「そんな顔するんじゃない」

「わっ」

落ち込むな阿呆、となじりたくなるのを堪え、沖舂次の肩を軽く叩いた。
それから煙草を咥え、最後の一吸いとばかりに深く吸い、紫煙を極力遠ざけて吐き出した。

「飯に行きたいが飯屋も閉まってるな」

「お蕎麦!」

「あぁ。お預けだ」

本当は夜鳴き蕎麦があるが面倒だ。沖舂次は食べ物の話で途端に元気を取り戻す。それだけで十分だ。いつもこの調子でいてくれたならば良いのだが。
面倒な部下をこうも目に掛ける己も我ながら滑稽だと、短くなった煙草を灰皿に押し付けた。

元気が戻り忠告もして用が済んだ。俺は沖舂次を追い返そうと考えていた。
いつも残業に付き合うと言い張る沖舂次との押し問答を避けたい。
追い返す方法を思い付いた俺は、今夜は押し問答をせずに済みそうだと、ひっそり笑んだ。それは、今の状況に丁度良い方法だ。

「鍛えて欲しいか」

「えっ?」

「今度の出張で色々と思い知ったんだろ」

「それは、えっと」

何も見つけられずに出張を終えた。それが成果だと言ったが、結果が無い事実は覆せない。沖舂次は自分の実力を問われた気がして、言い淀んだ。

「鍛えてやってもいいぞ」

「藤田警部補が直々にですか! 稽古でしたら是非!」

「違う」

二ッと口角を上げて、俺は新しい煙草を咥えた。沖舂次の視線を捉えて、火をつけるさまをゆっくりと見せつける。煙草の先がちりちりと音を立てて燃え始めた。
燐寸を振って火を消すと灰皿に置き、ふぅ、と最初の一息を沖舂次に吹きかける。
沖舂次は、んっ、と目を細めたが、これから稽古だと思って我慢した。

「男に慣れるか」

「へっ、な、何を言ってるんですか、警部補、どうやってそんな事」

「教えてやろうか」

「なっ、ちょっ、これから稽古するんじゃ」

ふぅ……と時間をかけて紫煙を吐き出し、おもむろに沖舂次に顔を寄せて囁いた。

「どうする」

温かな息と脳髄まで届く低い声の響きに驚いて、沖舂次は背筋を伸ばして硬直した。

「けけけっ警部補ってば、何するんですか! ご、ご自分の声がどれだけ罪深いかご存じないんですか!」

「声?」

真っ赤な顔で言う沖舂次に、俺は「さて」と首を傾げた。

「警部補っ、物凄くいい声してるんですよ! お気付きじゃないと思いますが!」

恨めしそうに睨んで言い返す目には、涙が滲んでいた。馬鹿にされている思いと、単純に俺の悪戯を恥じらって、涙を浮かべていた。

「ほぅ、そいつはどうも」

気にしたことも無い。うそぶいて、今度は沖舂次の耳まで顔を寄せた。
唇が触れそうな距離で、ねっとりした声を発する。そこまで褒めてくれるならもう一度聞かせてやるとばかりに、耳から体内を犯すつもりで声を響かせた。

「そんなに好いか」

「ひぃぁああっっ」

沖舂次は必至の思いで逃げ出して、警視庁を後にした。

「ククッ、こいつは便利だ」

一人になった俺は、笑いながら煙草を取り出した。
沖田総司なら斬りかかって来るところだ。あんな赤い顔はせず、女みたいな涙目も見せない。沖舂次自身も、こう正面から揶揄われては"うっとり"する間も無かろう。

任務の上、似たような距離で沖田と接したことがある。誰にも聞かれぬよう耳元で伝達。三番隊組長から一番隊組長へ、そんな伝達を何度かした。沖田は、ふんふんと頷いて「わかりました」と笑顔で頷くだけだった。

簡単に追い返せるうえ、沖舂次は女、沖田総司とは違うと確認できる。
幾度も確かめるうちに面影が重なる機会も減るだろう。

「でなければ、やってられんからな……」

一人の部屋で遠慮なく煙草に火をつけて、短くなるまでじっくりと味わった。
紫煙を何度も吐き出して、煙草が尽きると深い溜め息を一つ吐いた。

この日以降、俺は不意をついて沖舂次の背後から囁くようになった。
背中で聞く溜め息と突然聞かされる囁き声、どちらが良いか、沖舂次には分からなかったようだ。
 
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