警視庁恋々密議

□11.在り香
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翌朝、斎藤が資料室を訪れると、夢主はいなかった。
すぐに来るだろうと甘く考えた斎藤だが、昼を過ぎても夢主は現れない。
何か別の任務でも入ったのか。
川路に確認したいほど気になるが、特別な理由もなく行先を訊ねるなど、愚かが過ぎる。

「明日は、来るか」

まさか己に揶揄われたことが原因か。
斎藤は眉間に皺を寄せて、煙草を取り出した。

「阿呆が」

そんなヤワな女か、いや違う。
斎藤は否定すると燐寸を擦った。鼻の奥に残る、独特の臭いが漂う。

「燐寸の臭いが好きとはな」

燐寸の臭いで夢主を思い浮かべた斎藤は、寸秒、手を止めて火を見つめた。
煙草より燐寸が好き。
なかなか変わった趣向だ。
煙草に火を移して燐寸を振り火を消すと、一段と強い臭いが漂った。

「フン」

斎藤は燐寸の臭いを消すように、強く紫煙を吹き出した。

単独任務に違いない。
割り切って一日を過ごしたが、翌日も夢主は現れなかった。



「何なんだ」

斎藤は大きな動作で長椅子に座り込んだ。
夢主の不在に苛立ちを覚えるとは我ながら不甲斐ない。
たかだか女が一人来ないだけで、そう、ただの同僚だ。少し興味があり、口説いている最中だが、ただの同僚。
気掛かりなのは、己の不躾が原因でここに来るのをやめたかもしれないと言う事態。

約束をした。互いに密偵であるが故、意識を持って再会すると決めた。
怒りから、約束を反故にしたのか。

斎藤はまた燐寸を擦り、夢主を思い出していた。
資料室にある幾つかの灰皿は、全て吸い殻で溢れていた。



資料室の扉を開ける度に溜め息を吐く癖でもつきそうだ。
夢主が姿を見せなくなってから五日目、斎藤は、フゥ、と一息吐いて取っ手に触れた。その直後、動きが止まった。

中に誰かいる。
確かに感じる気配。
斎藤は期待する己にも気付かぬほど、中の気配に神経を尖らせた。そして、勢いよく扉を開けた。

朝一番、夢主が既に着席していた。

「おい」

夢主は手元に視線を固定して、黙々と書き仕事を続けている。
机の上は、右にも左にも書類や帳面が山のように積まれていた。

「おい、夢主」

斎藤を無視して、夢主はひたすら書き続けている。紙面を動くペンの音が斎藤の耳についた。

「返事をせんか阿呆」

夢主は書き終えた一束の書類を乱暴に右の山に積み上げた。
ペンを置いて顔を上げ、斎藤を睨む。

「誰が阿呆よ」

「拗ねるなよ」

「何よ突然」

久しぶりに顔を出してみれば、挨拶も無しに阿呆呼ばわりとは。
目を逸らし、夢主は椅子を足で押すように立ち上がった。

「拗ねてないわよ、怒ってるの。もう貴方とは勝負しないわ」

大袈裟に顔を背けて窓を見る。
夢主は朝の清々しい光に目を細めた。

「悪かった、少々やりすぎたのは認める」

「少々?」

言葉選びをしくじった。斎藤がおっと失敬とばかりに表情を変える。振り向いた夢主の顔は険しかった。

「貴方が厭らしい男だってコトが嫌と言うほど理解できたわ」

「そいつは」

言いかけて止めて、斎藤は咳払いをした。

斎藤は人を揶揄うのが好きだ。
女を、気になる女を揶揄うのはもっと好きだ。それが色事を思わせる艶めかしい揶揄いなら尚更、好ましくて堪らない。恥じらう姿、怒ったり拗ねたり、顔を歪めるのも面白い。
一番面白いのは、己の揶揄う行為に対して、素直に反応を示すさまだろうか。
正直に言えば絶縁されそうだ。斎藤はもう一度、んんっと咳払いをした。

「男嫌いを直したいんだろ」

「……」

「このままではマズいと思っている。任務に支障をきたすかもしれない。違うか」

「……」

「俺を信じてくれたんじゃないのか」

更に続けようとした斎藤を、夢主の厳しい眼差しが止めた。

折角信じてみようと思えたのに、貴方が裏切ったのよ。
こんなことを言っては、斎藤に希望を託しているみたいだ。
男として信頼を寄せる? 勝負の行方に自分を賭けた。よくよく考えれば、淡い想いを抱くことを許したようで、とても口には出せない。

交わしたのは約束のひとつに過ぎない。
男嫌いが直れば生き辛さも減るだろうかと、賭けた。少しだけ興味がある、この男に。

拘りなんか無いと目を逸らして再び窓を見た夢主は、軽く腕組みをした。

「勘違いしないでね、私が興味を持っているのは、貴方の過去。貴方が見てきた地獄。貴方自身じゃ、ないから」

「……そうかい」

違うだろ。本音は異なる。
夢主の素振りから感じ取るが、斎藤は追い込む言葉を口にしなかった。

「すまない。他に言うことは無い」

「許せと言われても、許せない」

「あぁ」

詫びる以外に何が出来る。斎藤はこのやりとり、お前に委ねると話の主導権を夢主に渡した。
抗わず、怒らせず。気が済むまで思いの丈を吐き出せ。斎藤は、夢主が話に耳を貸せる状態になるまで待つつもりだ。

「あんなの、ずるいじゃない」

「そう、だな」

逃げられぬ状況を仕立て、動きを封じ、声を飲み込ませて、悪さをした。
まぁその通りだと、斎藤は肩を浮かせた。

「ずるいわよ。何て言うか……あんなの、逃げられないじゃない。私の意思を、優先してくれるんじゃないの」

「それは」

窓を眺めていた夢主が急に腕組みを解き、斎藤に迫った。
胸ぐらを掴み、持ち上げる。体幹が良く体格対差もあって斎藤の体が浮かないのが、夢主には不愉快だ。
ぐっと顔を寄せて、啖呵を切った。

「今度は私が迫るまで、唇に触れないで」

言い放ったものの、仄かに耳が色づいている。
顔が近付くと感じる息。目の前の唇につられて、先日の勝負が思い出される。
強引に捩じ開けられた感覚。
記憶を辿るように、夢主の唇が俄かに痺れた。

「迫ってくれるのか」

堪えきれず、斎藤は悪言を溢した。
いつもの調子で、厭らしいと言われる目付きで見つめながら、言い返していた。

落ち着くどころか、夢主の興奮が強まっている。
じりじりした痺れを消そうと唇を噛む夢主を見て、斎藤の目尻が吊り上がった。

「知らないわよ、そんな日が来るかもしれないでしょ、貴方が努力するんでしょ、私の男嫌いを直して、それでっ」

「ククッ、なぁ、多少は許してくれないと、俺も難しいぞ」

むきになって訴える夢主。
男嫌いを直して、それでどうする。より激情させる言葉を避け、胸ぐらを掴む手を離せと宥めるように、夢主の腕に触れた。

我に返り、紅潮していた夢主の色味が引いていく。
手が離れると、声音も落ち着いた。

「多少って」

「ここは無理でも、全てを拒絶しないでくれ」

こんなことを言うのもずるい。分かっているが、斎藤は夢主の唇の前で指を止めた。
同意を求めて首を傾げ、指を下げた。
夢主は言葉の意味を探っている。
その隙をついて、斎藤は夢主の頭に軽く、一瞬触れた。
 
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