警視庁恋々密議

□10.咥えた唇
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立ち去る張が醸し出していた後ろめたさ。
悪人という一言が深く突き刺さったらしい。
夢主は自分は悪くない、自業自得よと、閉じた扉に向かってフンと悪態をついた。

やっと空になった長椅子が目に入る。
一休みしようと座った時、閉じた扉がすぐに開いた。

忘れ物でもしたのか。夢主が顔を上げれば、姿を現したのは斎藤だった。
ちらりと肩越しに廊下を見遣り、顎で廊下の先を差す。

「張とすれ違ったが、何か言ったのか。珍しく萎れていたぞ」

くくくっと、夢主は愛らしくも人が悪い笑いを見せた。
自分の笑いを見せられた気がして、斎藤もフッと笑ってしまう。

「事実を言っただけよ。悪人、ってね」

「悪人、ね」

善悪の判断は立場が異なれば変化する。それを分からぬ夢主ではない。
深く追及することもない。張への一言は己の悪戯と似たようなものだろう。

斎藤が仕事を進めるか、と席に着こうとした時、夢主が手持ち無沙汰だと言わんばかりに背伸びをした。

「手が空いているのか」

「えぇ、ちょうど面倒が一つ片付いたところ」

成る程、それで張を揶揄ったのか。自分でもそうする。斎藤は夢主が仕事を終えた直後の心境を推し量った。気が弛んで余計な一言も言いがちだ。

「先日の抜刀勝負」

「何よ」

寛いだ様子で背伸びをしていた夢主の声が、急に歪んだ。
終わった勝負を持ち出して何のつもりと不貞腐れた。

「蒸し返すつもりは無い。ただ前回は人の目で一瞬を捉えねばならなかっただろう」

「そうよ」

「それが後腐れを残した理由だ。ならば目で見て明らかな結果が残る方法を取れば良い」

「どうやって勝負するの」

斎藤は、フッと艶やかに色気を浮かべた笑みを見せて、煙草を取り出した。

「こいつを斬る」

言うと煙草を咥えて、大きく揺らした。居合斬りの目標として示す。
揺れる煙草越しに見える斎藤の妖しい笑み。夢主は目を逸らして腕組みをした。

「煙草は、前にも斬ったでしょ」

「そうじゃない。互いに咥えた煙草を斬る。怖いか」

斎藤は一旦煙草を手に戻して、ゆらゆらと揺らした。
驚いた夢主は、「なっ」と息を呑んだ。相手の腕を信用していなければ、とても受けられない勝負だ。

「より短く切った方が勝ち。並べて判断出来るんだ、公平だろ。相手に怪我をさせたら負け。それならば無理はしまい」

「でも、そんなの、斬る瞬間に逃げたら分からないじゃない」

「壁に頭をつけて挑めば良い。逃げたら、負けだ。相棒を信じられないんじゃあな」

「そんな勝負」

煙草を咥えて壁際に立ち、互いに斬る。
必要なのは細やかな技術、相手への信頼、自分への信頼。逃げたら負け。

夢主は斎藤を見上げた。
確かに任務で斎藤と組む機会が増えた。自分は本当にこの男を信頼しているのか、自分を試す勝負でもある。
男嫌いを直せるならと出した条件。それはこの男を信頼してみたいからじゃないのか。
それに、明確な判定が出来る勝負なら、勝ちを示したい気持ちが大きい。

「……いいわ」

静かに言うと、夢主は手を差し出した。

「煙草、ちょうだい」

「お前が先に斬れ」

斎藤は手にある煙草を咥え直して壁際に立った。

正面に立つ夢主、半歩下がって距離を取る。
狙うは斎藤が咥える煙草。
背が高く、下から斬り上げるには細心の注意が必要だ。
今回は疾さより正確さ。直線的に抜く必要はない。

じっくり目標を見つめて目測を立てた夢主は、

「行くわよ」

そう言って刀を抜いた。

音もなく斬られた煙草が落ちる。
斎藤は床に落ちた煙草を無視して、口に残った物を机の上に置いた。

「今度は俺の番だな」

慣れた手つきで煙草の箱を軽く振って一本飛び出させると、夢主に取らせた。

不安はある。夢主は平静を装って壁に背を付け、煙草を咥えた。

刀に手を置く斎藤を見て、思わず生唾を飲み込む。
口に物を咥えているだけで大きな不自由さを感じる。何をされるのか、分かっているのに警戒してしまう。斎藤がしたことだ。自分もしてみせると自らを奮い立たせた。

煙草を斬る抜刀勝負。動いては危険。
夢主は気持ちを落ち着け、斎藤の刀に目をやった。

「行くぞ」

斎藤が力を籠めると、手袋の滑り止めが柄糸と擦れて、小さく鈍い音を鳴らす。
夢主が息を止めた瞬間、風圧にも似た僅かな振動を感じた。
気付いたら、煙草の切れ端が床に転がっていた。
 
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