警視庁恋々密議
□10.咥えた唇
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「そのままだ、動くな」
終わりではないのか。
瞬間的な出来事直後の強い言葉。
緊迫の場面で指示が下った錯覚を受けて、夢主は斎藤に言われるがまま、壁に背を付けていた。
斎藤は刀をおさめると、己が斬った、夢主が咥えている煙草に手を伸ばした。
白い手袋が妙に浮き上がって見え、夢主は暗示でも掛けられているような感覚に陥る。
手が、体が、顔が近付く時間がやけに長く感じられた。
「逃げたら、負けだ」
ちょっ、ちょっと待って。
夢主の目が困惑を訴えた。
壁を背に、動けなくなってしまった。迫る斎藤を見上げている。
長い腕が夢主の直ぐ頭上の壁に止まる。
伸びてきたもう一方の手が、夢主の口元で、煙草に触れた。
「ククッ、いい腕前だな」
自賛ではなく、夢主の腕を褒めていた。
煙草を摘まみ、唇を押し下げるように力を加える。
夢主は得も言われぬ屈辱と羞恥を感じた。
声を出せない夢主の唇に、斎藤の指が触れる。
唇を押すように抜き取った煙草は、斎藤が咥えていたものよりも長かった。
「お前の顔に傷をつけるわけにはいかんからな」
「それは」
「あぁ、言い訳だ。お前の勝ちさ」
厭らしい動きで煙草を抜き取られた夢主は、思うように言葉を発せなかった。
さっさと煙草を吐き捨てれば良かったのに、体ごと逃げれば良かったのに、後悔を繰り返すが、斎藤の思惑に従ってしまった事実は覆せない。赤い顔で俄かに呼吸を乱していた。
そんな初心なさまをククッと笑った斎藤、夢主が咥えていた煙草を自ら咥え、火をつけた。
「なっ、」
「お前が香る煙草ってのも悪くない」
「何してっ」
「香りと、味も、か」
ニヤリと視線で語る斎藤に、夢主は一瞬、体を強く震わせた。
「やだちょっと、やめてよ、気持ち悪いっ」
「おっと危ないぞ、欲しけりゃくれてやる」
火がついた煙草に触れようとする夢主から逃れ、斎藤は机に手を伸ばした。
自分が咥えていた煙草を夢主に放り渡す。
「要らないわよ!」
夢主は受け取った半端な煙草を灰皿ににじりつけ、押し潰して部屋を出て行った。
自分の味がするだなんて嘘に決まっている。
匂いだなんて、あの一瞬で付くわけがない。
そもそも匂いなんてしない。
夢主は自分の体を抱きかかえるように腕を組んで、ふるっと体を震わせた。
むず痒い感覚が下腹部から頭の先まで走り抜ける。この感覚が堪らなく嫌だ。
勝ったのは自分なのに負けた気分を押し付けられた。
そもそも斎藤の裁量で勝たされた気がして喜べない。
「もうっ!」
短く叫び、夢主は大きな足音を立てて足早に歩いて行った。
資料室では、斎藤が楽しそうに反省をして、煙草をぎりぎりまで味わっていた。
味などいつもと変わらない。
だが、夢主を思い出すと甘く香る気がしてしまう。
「少々やりすぎたな」
煙草を摘まむ指先に目を落とす。
煙草を抜き取った時に感じた、柔らかな唇の感触が残っていた。