警視庁恋々密議
□13.鼈甲飴
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「あ、貴方が座れって言うから」
「誘いたくなるだろう、お前から来てくれるんだ」
「……もぅ、馬鹿……」
そう言われては離れるしかない。
身を起こした夢主は不服そうに斎藤を見下した。
視線がぶつかると、夢主が眉間に皺を寄せる。唇を尖らせ、腕を伸ばした。
「何でそんな綺麗な目してるのよ、貴方……そんななのに」
「そんな、とは」
「そういうトコロよ」
そう、全て悟ったような顔をして。
夢主は斎藤の目を真似た。常々自分がされるように、細目で睨み下ろす。
獣欲に単純で、くだらない話を持ち掛けてきた男。傲慢で独り善がり、厭らしいくせに、やけに丁寧で。女慣れしているだけなのに、分かっていても疎めない。気遣いを受けるのは目的があるから。でも目的を越えて掛けられる優しい言葉。優しさに隠した肉慾。誘いは言葉で、言葉なのは力で動けないから。
夢主の指先が斎藤に向けられた。
関係を賭けた勝負を持ちかけたのは自分。強引なのは駄目と言ったのも自分。
この人は、自分に応えてくれている。
応えてくれているのに、掌の上で踊らされている気がしてならない。
狡猾な男なんでしょう、貴方は。それなのに。
「何で、そうなの……」
夢主は不機嫌な顔で、斎藤に触れようとしている。
怪しむが、抗わず待つ斎藤の口に、夢主が手を置いた。
「黙ってて。あと、見ないで」
口を塞がれた斎藤は一瞬、眉間に皺を刻んだ。ほんの一瞬だ。夢主の顔が近付き、斎藤が目を伏せると眉間の皺は消えた。何をする気か、期待している。
完全に目を閉じてしまわないのは何故なのか、分からない、夢主の様子を余さず知りたいのか。接近の気配の中、斎藤は自問自答を繰り返した。
距離を詰める夢主、薄ら浮かんだ斎藤の期待は外れ、視界が徐々に夢主の体で埋まっていく。
視線はどこだ。目を動かすと、白い首筋を視界に捉えた。
何を試みている。考える間もなく、首に浮き上がる筋に目を奪われた。
あの筋を辿れば鎖骨に触れる。首周りは敏感な女が多い。夢主はどうだ、今触れたら絶縁されるか。そんな事を考えているうちに、これまでにない熱い息が斎藤のこめかみに触れた。唇が触れたかと紛うほど、熱を感じた。
横目で覗くが仔細は見えず、動かねば確かめられない。だが動けは夢主は確実に離れるだろう。
斎藤が俄かに迷う間、夢主もまた惑い、近付けた唇を躊躇わせていた。
結局、夢主はそのまま身を離した。
「おい……」
「美味しそうだったの! でも、これが限界、無理よ。だけど触れてみたかったのよ……いいでしょ、もう何も言わないで」
「……あぁ」
斎藤は何事も無かったかのように再び煙草を吹かし始めた。
顔を背けた夢主の頬が僅かに血色が強いことを見ていた。琴線に触れる何かがあったのか、突然触れてみたくなったらしい。
我に返り、離れたものの後悔は見られない。ただ、戸惑っているようだ。
「後で」
声を掛けても、夢主は振り向かない。
斎藤は呼吸代わりに煙草を吸い、続けた。
「飯でも行くか」
「……行かない」
「……そうか」
「ごめんなさい、嬉しいけど、行かない」
夢主の気まずさが消えればと誘った食事は断わられて、策を失した斎藤。
目を逸らしているが、夢主にしてみれば貴方の気持ちは嬉しいと正直に応じたつもりだった。
溜め息まじりの斎藤の息差しを聞き、夢主は続けた。
「勝負は、忘れてないんだから」
背中越しに、負けん気の強い声が戻る。斎藤は口角を吊り上げた。
「ひとつ、勝負を思い付いた」
「……どんな」
「単純明快だ、目を合わせて先に逸らした者が負け」
「単純ね」
夢主は呟いて、長椅子から離れた。分かりやすい勝負、でも今の自分では無理。この人を見ている自信がない。夢主は目を合わせず、いつもの場所に着席した。
「今度ね、今はそんな気分じゃないから」
引いた椅子がいやに重たい。木の質感も冷たいだけで、木の温もりが、いつもの感覚が得られない。
夢主は机上に残されていた書類に目を落とした。
「仕事、するわ」
「……あぁ」
勝負を断ると、夢主の体に斎藤の視線が突き刺さった。見なくとも全身で感じる。相手にされず口惜しいのか、それとも敗北を察して勝負を避けた所為か。
だったら丁度いい。今度は夢主が勝負を提案した。
「振り向かなかったら私の勝ち」
「おいおい」
「いいじゃない」
「……」
後ろで見つめ続ける斎藤が、敗北を確信する。
振り向く訳がない。勝負は決した。いいのか、こんな簡単に勝利を譲っても。いいかもしれん、気まずさが消えたんだ。しかしタダで勝利を譲るのも口惜しい。
斎藤はおもむろに夢主に近寄った。
「分かった、俺の負けだ」
「えっ」
音もなく、顔が覗く。
「待って」
間近に現れた鼈甲色の瞳。
夢主は顔を遠ざけ、椅子から落ちた。
「駄目よ、何するの!」
床に転がり、似合わぬ仕草で体を擦る。驚きと痛みで歪んだ夢主の顔に、斎藤の眉根が寄った。己の失態を自覚していた。
「大丈夫か、お前が椅子から落ちるとは」
助けたくとも間に合わなかった。
斎藤が手を差し出すと、夢主は姿勢を整えた。首を振って乱れた前髪を元に戻し、髪の艶やかさを見せつける。
「いいわよ、落ちた私が悪いの、これくらいで椅子から落ちるなんて馬鹿みたい」
「勝負はお前の勝ちだ、すまなかった、驚かせるつもりは」
不意を突く気はあったが、まさか椅子から落ちるとは。そこまで避けるとは思わなかった。床に手をつく夢主を見て、斎藤はやり過ぎた己の行為を省みた。
「どうにも俺は先走るようだな、お前に関しては」
「……」
「つい」
「つい?」
「あぁつい、稀に、極稀にだ、お前を見ているとな」
「そんなものなのね、男のサガなのかしら。怒る気にもなれないけど」
斎藤が出した手を揺らして掴めと促すと、夢主は大人しく手を取った。
「責める気にもなれないわ、相手が貴方なら」
「ほぅ、そいつはどう言った了見かな」
「どうもこうも無いの、なんとなくよ」
何もかも見透かしていそうな鼈甲色の目が、素直に反省している。
この人は自分に合わせて待ってくれる、そう感じた途端、獣の欲に従い先走った。
でも、なんとなく責められない。驚いたから、逃げてしまったけど。
夢主は体を引き上げてくれた斎藤をチラと見上げた。
手を重ねていると、任務で踊りを学んだ日を思い出す。
「どうした」
「いえ、別に」
夢主を引き上げた手。握りを緩めても、夢主は手を離さない。斎藤は微かに首を傾げて、指先を握り直した。
再び加わった力で我に返った夢主は、軽く手を振り解いた。
「大丈夫よ、ありがとう」
改めて椅子に落ち着き、夢主は指先を擦ってみた。
今しがたの感覚との違いを確かめるように、自分の指を擦っている。自分の指は、今しがたの感覚よりも柔らかい。そして、及ばぬ大きさ。
「ありがとう……けど、落ちたのは貴方のせいよね、何をしようとしたかは聞きたくないけど」
「悪かった、勝負の一勝もお前のものだ」
「勝負は私の勝ち、なんやかんやは貸し借りなしの五分と五分」
貴方との違いが何だか少し悔しくて、少し嬉しくて、変な感じ。
以前は悔しさしかなかったのに、可笑しなものだ。
夢主は感じた変化に口元を緩めた。
私を誘って惑わせて、驚かせて転ばせて。けれども私も触れようとして躊躇った。躊躇いは貴方を戸惑わせた。だから五分と五分。
夢主は隣で自分を凝視する斎藤を見上げた。
「貴方も仕事して、早く終わらせましょ。やっぱり御飯に連れて行って。それで五分と五分よ」
「ククッ、現金な女だ」
「嫌ならいいのよ」
「いいや、喜んで働くさ」
「先に書きあげた方に一勝ね」
「おい」
書類の山の上部を一摘まみして仕事を確保した夢主、残りの大部分を斎藤の机に追いやり、くくっと厭らしく愛らしい笑みを溢した。
やがて自らの割り当てを書き終えた夢主は、貸しだと言って斎藤を手伝った。
二人で向かった蕎麦屋、夢主は上機嫌で斎藤に昼飯を奢らせた。