おつまみ

明】雪代縁・白い哀艶
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陸蒸気に揺られる夢主は、気慰みに移り行く景色を眺めていた。
昨日は横浜に近付くほど気持ちが昂ったが、今は新橋が近付くほど気持ちが沈んでいく。

「手ぶらで帰るなんて情けないな、しかも、勝手に……一泊……」

皆にどれ程心配と迷惑をかけたか。夢主は青白い顔で大きな溜息を吐いた。横浜にも心残りがある。

「縁、大丈夫かな」

気分は浮かなくても、陸蒸気から見える景色には心が和む。夢主は景色を眺めながら、横浜での体験を反芻していた。
たった一日なのに、初めての体験ばかりだった。怖い思いをして、嬉しい再会をして、もう一つ、初めての感覚を知った。ふわふわと落ち着かないけど、どこか温かい気持ち。
縁を見ていると嬉しくなったり、切なくなったり、感情が揺れ動いて苦しいのに、傍にいたいと感じた。

縁の傍で見たのは昔から良く知る、瞳に隠れた淋しそうな色。それに加え、夕べは別の色が見えた。
子供の頃には見えなかった縁の何か。気付かなかっただけなのか、自分が大人になったから見せてくれたのか。

大きくて可愛い背中も初めて見た。昔は、ただ逞しくて頼もしいだけの背中だった。

「縁が可愛く見えるなんて……」

頼もしくて可愛くて、淋しそうで、それから。夢主は縁に感じたものを順に言葉にしたが、途中で止まってしまった。どんな言葉を選べば良いか分からない姿が浮かんだ。
暗い中、撫でた髪の感触は思ったよりも柔らかくて、指先に従順で。朝日の中の縁は消えてしまいそうなほど儚くて美しくて。脆く壊れてしまいそうだった縁の姿。

「でも、馬鹿力だよ」

夢主は縁の力を思い出し、夕べ掴まれた腕を擦っていた。縁の力を身をもって感じたのは始めてだ。とても強くて、でも痛くなくて。

「優しかった……」

ぽつりと言って、夢主は自分の体を抱きしめた。腕を強く掴んでみても、縁から感じた力とは違う。夢主は更に強く掴んだ。
夜中の縁は一段と強い力で、より淋しそうだった。眠りの中で、行かないでとうわ言のように囁いて夢主を抱きしめた。

「姉さん……縁の、お姉さん」

亡くなったお姉さんに会えたって、どういう事だろう。夢での再会を言ったのだろうか。
暫く自分を抱きしめていた夢主だが、気抜けするように椅子に凭れかかった。ぼんやりと流れる景色を眺めて、陸蒸気が止まるのを待っている。窓から差す光と影が、交互に夢主の顔を撫でていった。


駅で待っていれば縁が来るだろうか。待ちたいが、そうもいかない。
夢主は手ぶらを恥じるが、自分の落ち度が招いた結果だと受け入れて、新橋に着くと真っ直ぐ診療所へ向かった。
小国や手伝いの皆に一晩診療所を空けてしまった事と鞄を失くした事を詫び、連れが後で届けてくれると伝えた。夢主は失った時間を取り戻そうと小国と共に務めに励んだ。入院患者の回診をして、訪れる患者の診察をして、一日はあっと言う間に過ぎていった。


もう夕方。
縁と横浜を歩いたのもこんな時間だった。差し込む陽の変化に気付いた夢主が窓を見上げた。

「遅いなぁ……」

診察を終えた夢主が片付けを終えて外に出た時、診療所の前は人けが無く静まり返っていた。
通りを覗いて、やっと人影を見つけた。縁が長い影を連れてやって来る。縁の白い髪が、優しい夕暮れ色に染まっていた。
どんな手段で一人、事を解決したのか。縁は穏やかな様子で歩いてきた。

「縁!」

「待たせたナ」

縁は夢主の前までやって来て鞄を渡した。丸一日ぶりに持つ自分の鞄。阿片入りの鞄より少し軽い。夢主は鞄を抱きしめた。
大事そうに抱える姿に、縁の目が細まる。

「飛びついて来るかと思ったガ」

「と、飛びつかないよ!……飛びついてもいいの?」

「避けようと身構えたんだヨ、それでも良ければ来い」

縁は一瞬、悪戯な顔を見せた。飛びついてこようが、ぶつかってこようが、容易く受け止められるが、今度は避けるぞと。

「飛びついたりしないから、もぅ」

横浜での出来事と、旅の最中いつもしがみついていた幼い自分を思い出した夢主は、気恥ずかしさで頬を膨らませた。
縁が悪戯な顔をやめて「分かったヨ」と折れると、夢主の顔に穏やかさが戻った。すると縁は再び悪戯な顔をした。

「今度は鞄を捨てなかったナ」

「うっ、それは」

横浜では十年振りの再開で気持ちが昂っていたから。大目に見てやるサと、縁は鞄を抱きしめる夢主を揶揄うように見下ろした。
きつく抱きしめる姿を見ていると、自分が成した事を認められているような擽ったさがある。
かつての部下を抑え込んで荷物を一つ取り戻す、容易い仕事をこなしたに過ぎない。なのに妙に胸の奥が騒ぎ、何かが湧き起る。
これは何だ、姉さんなのか、何か伝えたいの、それとも俺自身の何かなのか。縁はいつの間にか己に問いながら、夢主を見つめていた。

「ありがとう……大事な鞄、取り戻してくれて。縁、怪我は、大丈夫だったの、あの人達は」

「横浜の警官が手柄を得て喜んでいるサ」

矢継ぎ早に問う夢主に対し、縁はゆっくり答えて余裕を見せた。落ち着けよと、軽く首を傾げる。

「その、縁は大丈夫なの」

鞄を取り戻す為に手を汚してしまったのではないか。元々警察を避けていた縁に、今回の件で警察に追われていないのかとは聞けない。
夢主が目を伏せると、縁は「大丈夫だ」とだけ告げた。

言葉が途切れた時、夕風が吹き抜けて二人の髪を揺らした。

「寒いし、診療所に……来ない?」

動こうとしない縁を夢主は不安な想いで見上げた。縁の瞳がいつもの淋しい色に戻っている。このまま行ってしまうのか。
縁が行ってしまえば、いくら追いかけても敵わない。夢主は泣き出しそうな自分に気付いた。
縁も夢主の淋しさを見たのか、フッと目元が動く。

「あぁ」

そう言って、縁は夢主がやって来た方角へ歩き出した。行かないのか、と問うように振り返る。
縁の瞳は淋しそうなまま変わらない。それでも歩き始めてくれた。夢主は笑顔で追いかけた。追いついて、にこにこと締まりのない顔で歩く夢主を、縁が何がそんなに嬉しいんだと不思議がる。

「何だヨ」

「ううん、何でもないよ、ちょっと嬉しいだけ」

「変な奴だナ、お前」

素直な感情を見せる夢主に、縁は俄かに柔らかな表情を見せた。
自分をちらちら見ながら歩く夢主が危なっかしくて仕方がない。

「だから何だヨ、前見て歩かないか」

「だって、夕陽が……縁の髪が、夕陽に染まって綺麗だなって」

「五月蠅いゾ」

「ごめんなさい」

謝った夢主だが、悪びれもせず縁を見上げていた。見つめるほどに目が離せなくなってしまう。
縁の切なさを含む瞳も好きだが、今は夕陽色の髪に惹かれていた。

「縁の白い髪、綺麗だよね。……生まれつきなの」

訊かれた途端、縁が立ち止まる。

「ごめんなさい……本当に綺麗だと思ったから……余計なことを」

今度は詫びる声が沈んでいる。縁にとって忌むべき問いだったのか。縁の様子の変化に夢主は言葉を失い、青ざめた。

夢主にとっては美しい白い髪でも、縁にとっては忌まわしい思い出がある。

──白い髪、きっかけは……

生まれつきではない髪の色、縁は自分の髪よりも白かったあの日の景色を思い出していた。
いつの間に真っ白に変わったかは分からない。でもきっかけはあの日、あの雪の日、それだけは明確だった。
全ては済んだ事、姉さんもそう言っている。怒っても悲しんでも戻れないあの日。酷く寒かった冬の日だ。

「縁……ごめんなさい、もぅ言わないね……」

あの日の怒りと悲しみには何度も向き合って、その都度、想いにケリをつけてきた。
何度もぶり返すが、何度でも向き合った。人誅を犯してしまったあの日から何度も。
今も横浜で想いに区切りをつけて来た縁、夢主の声に反応して目を向けると、深く自省して落ち込む姿があった。

「でも、綺麗だなって思ったのは……本当だよ」

自分の悲しみを察して夢主までもが悲しい顔をしている。いや、自分以上に悲しそうだ。
縁はふっと力の抜けた顔を見せた。

あの日の怒りも悲しみも忘れないが、囚われてはいけない。姉さんが教えてくれた、自分が笑えば貴方の中で私も微笑うと。

──亡くした者の為の復讐より、目に見える者の……微笑み、姉さんの……声……

「気にしないサ、髪の色なんか」

静かな声に夢主が顔を上げると、何でもないと言う縁の髪は、誰かの悲しみを映したように鮮やかに朱く染まっていた。
立ち止まっていると、二人を撫でる風が一層冷たく感じられる。
俺は気にしないからお前も気にするな、縁の気持ちを受け取った夢主は小さく頷いた。

「あのね、横浜で言った通り……休んでいってね、もう遅いし今晩は……。今晩だけじゃ、なくても……」

「あぁ。もう遅いしナ、今日は冷える。こんな日に地面で寝るのはご免だ。今夜は、世話になる」

「うん」

横浜の夕暮れ時とは異なり、今度は夢主が縁を導く。夕陽に染まる道に長い影が二つ揺れていた。
 
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