警視庁恋々密議

□10.咥えた唇
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ここ暫く、特務を請け負う密偵にとっては些細な仕事が続いている。
志々雄一派殲滅の大仕事を終え、事後調査は続いているが、派手に出動する機会はない。

この日、既にひと仕事を終えていた。今日も目立たった動きは無いだろうと、夢主は立ち上がって肩を回し、体を解した。座り仕事で一日が終わりそうだった。

窓の外を見て自分の腹と相談するが、夕飯にはまだ早い。
書きあげた報告書を持っていく前に少し休むか、と長椅子に目を移すも、そこでは張が休んでいた。

先刻戻った張が一眠りしている。だが、夢主の仕事の終わりに合わせたように目を覚まして、ゆるゆると起き上がり、大きく伸びをした。

「斎藤の旦那、おらへんの」

「えぇ、さっき出て行ったわよ。所用があるとかって。すぐ戻るみたいだけど」

鬼の居ぬ間になんとやら。張は羽根を伸ばす気分で両手を突き上げた。
座り直して首を左右に揺らし、音を鳴らす。
部屋に二人きりやなぁと夢主を見るや、張は唐突に身を乗り出した。

「なぁなぁ、夢主はんは斎藤のオッサンのどこが好きなん」

「すすすすっ、好きだなんて言ってないわよ! 一度も!」

「そうなん、ワイはてっきりそうなんやと」

「違うわよ! あの勝負だって、その……私より強い男って言うのが第一条件で、だから勝手にあの人が挑んできただけよ」

「ほえぇ」

張は、興味があるのか無いのか、微妙な声を響かせた。
真面目に答えた自分が馬鹿みたいじゃないと、夢主の肩が怒る。

「なら他の男でもえぇんか、夢主はんより強いんやったら」

例えば志々雄様。張はかつて仕えた男を思い出した。

「人として尊敬できなければ論外よ。あと、悪人は嫌い。悪いけど、薩長の出も好きになれないわ。どんなにいい人でもね。唯一の例外は警視総監。あの人ほど藩閥に囚われず人を起用している高官はいないわ」

「意外と難儀やなぁ」

「張君には関係ないでしょ」

「まぁな、斎藤のオッサンと夢主はんなんて面白い組み合わせや思うただけや」

「面白がらないでよ」

「ワイも挑んでみよか?」

「無、理! 貴方は悪人!」

ふざけた張が夢主を覗き込んで、更に身を乗り出した。夢主はすぐさま張の言葉を切り捨てる。
明るく調子乗りな性格の張だが、考える間もなく拒絶されて、哀愁を漂わせた。

「酷いなぁ〜、せめて元・悪人にしてぇや」

「赤ん坊を斬ろうとしたって話、聞いてるわよ。信じられない」

京都での話は伝わっている。
夢主に指摘され、さすがの張も苦虫を噛み潰したような顔をした。頭を掻いて、逆立った長い髪が揺れる。

「あれは脅しの為やで、ワイかて多少の情けはあるさかい」

「赤ん坊やその親を脅す時点で情けは認められないわ」

「キッツ……否定出来へんのが辛いわ」

張は自らの悪事を改めて思い知らされた。
正義の延長ではない、ただの傲慢な欲望で人に刃を向けてきた日々。省みる良心がこんな自分にもあるのか。
今はまだわからへん。両手を大きく開いて、お手上げやと考えを放棄した。

「ほな、ワイは雑務が残てるさかい、行ってくんで。オッサンによろしゅう」

これ以上咎められるのは勘弁とばかりに、張は姿をくらませた。
 
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