斎藤一明治夢物語 妻奉公

□19.その男、実業家
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いつしか日が落ち、明るかった部屋は僅かな月明かりが入るのみの薄暗い部屋に変わっていた。
細い膝の上には紅桔梗と月白の風呂敷包が乗ったまま、引き取り手を待っている。

そんな部屋に外からの光が差し込んだ。警視庁に戻りようやく手が空いた斎藤がやって来たのだ。
静かな部屋の様子を察し真鍮のノブをそっと回すと、きぃ・・・と小さな音を立てて扉は開いた。
廊下に灯された明かりが面会室に差し込み、部屋の入口の形を大きく床に照らし出す。

「やれやれ」

目の前の長椅子に良く見慣れた安らかな寝顔が見え、斎藤は何とも言えぬ息を吐いた。
そっと扉を閉めると、室内は再び薄暗い空間に戻った。
絨毯に乗るまでの数歩、斎藤は木の床でこつこつと革靴の足音を響かせた。
すぐに毛足の長い絨毯に足音は消され、静かに夢主に近付いた。

「フッ、阿呆ぅが」

夢主の前を通り過ぎて、斎藤は大きな窓のカーテンを閉めた。厚みを有しながらもしなやかな紅の生地が大きく揺れ、優しい月明かりを遮った。
斎藤が振り返って妻の顔を確認すると、変わらず瞼を閉じ、穏やかにすやすやと胸を上下させている。

「今夜の仕事はここまでか、邪魔をしやがって」

そばに寄り妻の顔を覗いた斎藤は風呂敷を除け、白い手袋をした手で眠る顔にそっと触れ、優しく呟いた。

「毛布を取ってくる。このまま寝ていろよ」

返答が無いことを確認して、斎藤は毛布を取りに部屋を出た。この季節、天井の高い部屋は日が沈めばすぐに冷えてくる。

斎藤はすぐに戻り、冷えた夢主の体に毛布を掛けた。
夢主は毛布の温かさに気付いたのか、無言でにこりと表情を和らげた。
斎藤はその笑みを見ながら隣に腰を下ろし、動かした風呂敷が気になり中を広げた。中身を見た斎藤は堪らず、フッと息を漏らして笑ってしまった。

「わざわざ着替えを届けに来たのか、全く阿呆ぅだな」

乾きたての着替えを包んだのか、開いた瞬間に陽の香りを感じた。夢主の寝顔に微笑みかけて、斎藤は風呂敷を再び結んだ。
腰を上げて机上に包みを置き、浮いた腰のまま夢主に向き直った。

外だという事をすっかり失念して緩んだ寝顔を晒している。
夢主を挟み込むように背もたれに手を付いた斎藤は真顔になり、じっと艶やかな長い睫毛を見つめた。

以前密偵仲間に連れてこられた夜と違い、今宵は扉前に警備はいなかった。
場合によっては誰かにこの寝顔を見られたかもしれない。よもや起こす為という名目で触れたかもしれない。
そう思えば下らないと思うが、小さな嫉妬が沸いてくる。

「全くお前は無防備すぎる」

無垢な寝顔に近づき、唇を塞いで己の失態を気付かせてやろうと企むが、あまりに心地良さそうな表情に躊躇い、そっと前髪を除けて額に唇を当てた。
激しく口を塞いでしまいたい。しかし口を吸っては起こしてしまう。
安らか過ぎる寝顔をそのまま守りたくなった斎藤は、夢主の横にもう一度腰を下ろした。

「やれやれだな、隣にいてやるから朝まで寝ていろよ」

己の肩にもたれさせるよう夢主の体を倒し、斎藤は仕事を放棄して静かな夜を過ごした。
廊下を行き来する警官たちの声もやがて聞こえなくなった。
 
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