斎藤一明治夢物語 妻奉公

□56.痛みを抱えて
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日が暮れて数時間が過ぎ、人々の多くは家に戻って安らかな一時を迎えていた。
斎藤もまた町を管轄する警察署で体を休めていた。
休むと言っても警視庁にいる時と変わらず、革長椅子に腰かけて資料を捲っている。
東京で密かに権力を奮う武田観柳に関する資料だ。

「奴が動いたか」

先程、口頭で報告があった。
神谷道場から出た男二人と子供が一人、町外れの観柳邸を目指していると。
緋村抜刀斎が動いたなら警察の出動もすぐだろう。これで武田観柳が隠す全てが明らかになる。

「あの広い屋敷で阿片だけとは思えんが」

製造設備と阿片そのものは警察が見つけるだろう。
だが阿片の流通経路を探り、材料の調達元を辿る面倒な仕事はこちらに回る可能性が高い。
武田観柳が他にも野望を抱いていれば余計な仕事が増える羽目になる。

「これ以上厄介事を増やすなよ」

町で多方面から恐れられている青年実業家も斎藤にとっては仕事を増やすだけの面倒な男。

観柳邸関連の書類を置いて手を空け、煙草に火をつけた。
そして別の書類に手を伸ばす。今一番取り扱わねばならない事案だ。
目撃報告から殺傷事件まで大小問わず、ある一派に関わる事象の書類。全国からの報告が纏められた束は薄くない。
素早く目を通していると、

「藤田警部補!」

外から呼び掛けがあり、返事をする間もなくせわしく扉が開いた。

「何だ」

「藤田警部補、署長が警官隊を引き連れ武田観柳邸に向かいました!すぐに突入すると思われます。我々も向かいますか!」

「いや、俺達は待機だ。動くかどうかは邸宅の状況次第だな」

「わ、わかりました」

勇んで飛び込んできた男は斎藤の冷静さに触れ、落ち着きを取り戻していった。
密偵と警官の仕事は似て非なり、上司の姿で思い知る。
流石だと尊敬の念を向けていると、その上司がまだ吸える煙草を灰皿に押し付けた。
口に残る紫煙をゆっくり吐き出している。
まるで心の整理をしているような間が生まれた。

この人に限って何かを言い出しにくいなど、あるのだろうか・・・
男は黙って警部補の次の言動を待ち、注視した。

「所で三島、お前は確か新月村の出身だったな」

身の上話か。
親し気な問いに顔が綻びそうになるが、警部補に限ってただの世間話はないだろう。
三島栄一郎は瞬時に気を引き締め直した。

「はい。新月村は私の故郷です」

「そうか。これを見ろ」

斎藤が示したのは机の上に広がる地図、三島の故郷を含む広域図だ。
馴染み深い土地に自ずと興味を抱き身を乗り出していた。

「・・・っこれは!藤田警部補、これは一体!」

驚く三島を余所に斎藤は新しい煙草を取り出していた。
一呼吸、落ち着けと言わんばかりに新しい煙を吐き出す。空気が流れぬ部屋で煙草の臭いが濃くなっていった。

斎藤が地図にちらり目をやり、それから己を見つめて離さない視線と目を合わせれば、三島が懇願の目を向けている。
既に覚悟は決まっているようだ。

「行ってくれるか。危険な任務だ」

「行かせてください、お願いします!」

机上の地図はあるはずの場所にあるべき村の名が消えていた。
自分の故郷に何が起きている。
説明を求める三島は斎藤から新月村の状況を聞かされ、最新の状況把握と、村を乗っ取ったという一派の動向調査の任を請け負った。
単独での潜入捜査。
正体が露見すれば死は免れない。

「無理はするな、報告が難しくなれば下手に動かなくていい。連絡が途切れたら手を打つ。いいな、下手に動くなよ。俺の到着を待て」

「はい」

この指示がこの若い密偵とその家族、幼い弟の運命を狂わせるものになるとは、今の斎藤が知るべくもない。
三島自身も約束を違え動かざるを得なくなる日が来るとは考えもしなかった。
 
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