まかない飯

明】蒸し夜のかくれんぼ
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じっとりと肌がべたつく夜。
吐き出す自分の息が重く感じるほど、嫌な夜だ。

「夢主、どこだ夢主!」

一さんは帰るなり、私を探した。
私を呼ぶ声は怒号に近い。声は遠いのに、頭に突き刺さるような痛みを感じる。
白い襦袢を一枚羽織っただけで、体を小さくして座り込んでいる私は、目を閉じて、更に体を縮こまらせた。
暑さが増して、今いる空間が狭くなった気がした。

一さんが私を探している理由は分かっている。
私が"おいた"をしてしまったからだ。私を咎めるために探しているのだ。

息を殺して潜む私は、ごくりと唾を飲み込んだ。
体中に汗が滲み、襦袢が肌に纏わりつく感覚が気持ち悪い。
全身の感覚が研ぎ澄まされて、何か物音が鳴る度、私の心臓は強く波打った。

「いい加減出て来い、夢主!」

帰宅した直後、一さんは二階に上がった。
荷物を置きに上がったのか、取りに上がったのか。
そこで私の"おいた"に気付き、私を探し始めた。

すぐさま階段を下りて来た一さん。
居室を覗き、座敷を覗き、もう一度階段をのぼって上の階を探している。
今度は部屋を覗くだけではなく、押し入れを開けたり、隈なく調べている。襖を勢いよく開いたのか、私のところまで音が届いた。

物音は止まらないけど、上の階も広くない。

すぐに……ほら、木が軋む音が聞こえた。

一さんがゆっくり、階段を下りて来る。私がこっそり覗いていると考えたのか、気配を消して下りれば捕まえられると思ったのかもしれない。

この隠れ場は、まだ気付かれていない。
でもずっと隠れていられる訳がない。
分かっているけれど、隠れてしまう。
怖い。怖いし、情けなくて。一さんの叱責が怖くて、怒らせしまった自分が情けなくて。

暑さに耐えかねて、呼吸が荒くなってきた。
このままでは気付かれてしまう。
でも、大きく息をしなければ、酸素が足りずに倒れてしまいそうだ。
吐き出す息は湿っぽく、狭い空間が一層蒸し暑くなる。大きな呼吸を続けるか、堪えるか。

惑っているうちに、遠くない場所で、水が滴る音が聞こえた。
濡れたまま放置した着物を見られてしまったのか。
水の音に驚いた私は、強く自分の体を握りしめた。縮こまった体はこれ以上、小さくなりようがないのに。

あぁ、血の臭いが漂い始めた。

一さん、一さんが近付いている。


「夢主」


目の前で声が聞こえたと思ったら、私が隠れている台所の物入れの戸が、ガタンと鳴った。

堪らず、私は息を止めた。
僅かに隙間が出来て、見慣れた指が入り込む。時に愛おしく、時に意地悪な指が、私を追いつめる。

指が戸を掴むさまを黙って見つめるしかない。

戸は、すうっと開いた。

真っ暗な空間に光が差し込む。
でも、少しも輝かしい気持ちにはなれない。

これから一さんに怒られると思うと、このまま消えてしまいたい気持ちになった。
呼吸が苦しくて、飲み込む唾も出てこない。もう駄目だ。
差し込む光の広がりに反して、私は目をきつく瞑り、暗闇を求めた。


「── 見 つ け た ぞ」


ゆっくり丁寧に、静かに響く声。
一さんの憤りが伝わる。
私はどう応じれば良いか分からず、名前を呼んだ。

「っ、一さ……」

「阿呆が!」

いつもより低く不機嫌な声。眉間に深い皺を寄せた一さんが、私を物入れから引きずり出す。
引きずり出すというより、優しく出してくれたんだけど……。

完全に身を晒した私は、一さんに抱えられるように座り込んだ。
背中に触れる一さんの手が、冷たく感じられた。

「全く、この怪我は、何だ!」

「すみません……」

私の右腕に撒かれた包帯に、血が滲んでいる。
血の臭いがしたら、一さんからは隠れられない。
思った通り、血の臭いが漂うと一さんはすぐに私を見つけた。
そして今、私の手を取って、血が滲んだ包帯を私に見せつけている。

「お前、俺の仕事道具に触れたな、あれほど触るなと言っただろう」

「ごめんなさい、悪気はなかったんです……」

言葉を発すると苦しくて、消えそうな声になってしまう。
自分の腕から目を逸らす私に呆れたのか、一さんは手を離して溜め息を吐いた。

「どうして触れた」

「それは……」

一さんの視線が突き刺さる。
汗で濡れた襦袢が見せる艶やかさに気付かず、私はただ一さんが怒りの視線を向けていると思っていた。
一さんが視線を動かしているのは、私の汗濡れた姿態を見るためとは知りもしなかった。

俯いていると、私の首筋を、汗が二筋流れていった。
それまで肌に張り付いていた汗が、外気に触れたことをきっかけに流れていく。

「ちっ、まずは水でも飲め」

蒸し暑い夜、物入れの中で汗だくになった私を気遣って、一さんは井戸水を汲んでくれた。
冷たくて美味しい井戸の水。

庭に出ると、幾分か空気が軽い。
私は一さんに桶を支えてもらいながら、冷たい水を一気に口に流し込んだ。

「んっ……」

水が勢いよく流れ、零れる。
口もとからも溢れ、首を伝って体を濡らすが、冷たさが心地よい。

石のように重かった体に水分が行き渡り、蘇る心地だ。
頭から水をかぶりたい気分に駆られたが、おかわりにとどめた。
桶から零れて体を伝う水だけで十分気持ちが良い。桶の水ほとんどが私の体を冷やす役目に終わった。

「さて、もう話せるだろう」

再び一さんの視線が突き刺さる。
一さん相手に黙っていても切りがない。私は怖々と、事の顛末を語った。



部屋を片付けていた私は、二階の箪笥に一さんの衣類を戻そうとした。
衣類の他に、朝、片付けるよう頼まれた書類も持って二階に上がった。

書類を片付けるなんて滅多になく、私は開ける引き出しを間違えてしまった。

「あ、ここは一さんのお仕事道具、気をつけなくっちゃ……」

触れずにいてくれたら俺は嬉しい。
遠回しに触るなと言われていた。

触る気は無かった。ただ、折り重なって置かれた珍しい武器の一部に、茶色びたものが見えたのだ。錆だ。

「一さん、まめにお手入れなさるのに。長いこと使ってないのかな」

武器の手入れはしていたはず。
しかし、考えてみれば日本刀の手入れだけで手一杯だったのかもしれない。
普段使わぬ武器は一さんも触れないのかもしれない。

「錆って、移っちゃうんだよね」

引き出しをそっと閉めたが、そのままに出来ず、錆びた武器を取り出そうとした。

その時、慣れぬ物を扱い、剥き出しになった刃で腕を切ってしまったのだ。

取り出した武器を箪笥の上に置き、引き出しを閉めた。
あとは一さんが帰ったら伝えればいい。
そう思ったが、予想以上の出血に怖くなってしまった。

畳の上に血が落ちてしまう。

慌てて着物の袖で腕を巻き、紐を取り出して口と左手を使って、なんとか腕の根元を縛り上げた。
あとは診療所へ駆け込んだ。
問題はない、はずだった。



「それで、錆が……」

「……くそっ」

理由を告げると、一さんは悔しそうに言った。
片手を額に添えて天を仰いでいるけど、一さんは項垂れている気分なんだと思う。
こうなるから、言いたくなかったの。

隠し通せるとは思わなかったけど、どうしようか考えているうちに一さんが帰って来て、咄嗟に隠れてしまった。
洗いかけの着物が水桶に入っている。私が在宅なのは明白。

一さんはすぐに私を探し始めた。

「俺が原因か」

「違います、私が勝手に」

「俺の武器でお前が傷つくのは、俺の責任だ」

「一さん……本当にごめんなさい」

やっぱり余計なことをした私のせいで、一さんが自己嫌悪を抱えてしまった。
鈍臭くなければ、怪我もせずに済んだ。
隠れなければ、一さんの怒りを増幅させて、感情を掻き乱すことも無かった。

「しっかり手当したのか」

「応急処置して、診療所に行きました」

「そうか」

安堵して溜め息を吐くように言うと、一さんは額に手を当てたまま俯いて、大きく首を振った。

「場所が悪ければ血が止まらん。本当に、気を付けろ」

「はぃ……ごめんなさい」

「触ったことを怒っているんじゃない、分かっているか」

「はぃ……」

怒って、いるよね。
一さんの怒りを確認した気がして、私はすっかり下を向いてしまった。

「お前を失うのはご免だぞ、それも、俺の居ない所で」

「大丈夫です、気を付けます。もうしませんし、この怪我も」

「お前は何かと危険に首を突っ込むからな」

顔を上げて反論したけど、何も言い返せない。
全部一さんが言う通り。
せめて迷惑を掛けないように、気を付けたい。
自分に言い聞かせていると、一さんにまた迷惑を掛けることになってしまった。

「暫く大人しくいていろよ。朝晩、飯の支度は俺がしてやる」

「大丈夫です、一さんお仕事があるじゃありませんか!食事の支度ぐらい出来ます!」

「朝は問題ないだろう、夜も一度立ち寄る。理由をつけて必ず」

「でも」

「阿呆、自分の妻を気遣って何が悪い」

「えっ」

怒っていると思った斎藤さんが、とても珍しい表情を見せた。
切れ長の目を伏せて、フン、と拗ねるように唇を引き締めて。
一さんの薄い唇が更に薄くなって、気まずそうに口角を小さく動かした。

「一さん……」

「いいな、俺の気が済むようにさせてもらうぞ」

「ふふっ、心配性です」

「当り前だ、全く」

朝晩の食事の支度は一さんが。
言われた通り従いますと、頷いて答えると、一さんは私の右腕を顎で差した。

「手当し直すぞ」

「あっ、はい」

俺の気が済むからと、一さんは自ら手当をし直すと言う。

「でも血はもう止まっています」

「そうか。だが包帯を巻き直して、濡れたソイツも変えねばならんな」

「っ……ふぁっ」

「脱げ、体は俺が拭いてやる」

「だっ、大丈夫です、出来ますから!」

「利き腕を痛めているんだぞ、無理に決まっている。俺にも経験があるからな」

ニヤリと笑んで、一さんは私を風呂場へ連れ込んだ。
濡れた襦袢を脱がし、体を拭う為に。
 
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