おつまみ

明】雪代縁、ちからの先
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京の外れの落人群。
抜刀斎への復讐が姉の望みではなかったと知った縁は、茫然自失の様相で座り込んでいた。

──もうどうでもいい、全てがどうでもいい……

縁は何度も同じ言葉を繰り返していた。
どうでもいいが、何故か死ぬ気にはなれない。
姉さんのもとへ行ってしまえば、きっと楽なのに。
上海に渡って這い上がり、組織、力、金、全てを手に入れた。全ては復讐、人誅の為。でもそれは……。

──どうして……姉さん……

全てを放棄したい縁だが、全てを捨ててしまおうと思うたび、姉の声がどこかで響いた。
そう、姉は自分の死を望んでいない。それだけは間違えようがない、確かな姉の意思だった。

あれから姉の笑顔を見たいと願っても、何故か姉の姿が見えなくなっていた。
自死を思いとどまらせる声は聞こえるのに、姿を見せてくれない。どうして、どうしてなの姉さん。縁は同じ問いかけを重ねていた。

東京湾の孤島で渡された姉の日記は、今も肌身離さず大切にしている。
何度も読み返して姉の姿を思い、頭の中で声を蘇らせても、姉の笑顔は見えなかった。

「ホッホッ、今日も動く気になれんかのぅ」

当てもなく座り込む縁の隣に、いつも座り込む老人がいる。
皆がオイボレと呼ぶ老人は、縁を気に掛けている。ここは全てを捨てた者だけが留まることを許される場所。オイボレは落人群について語り聞かせた。何か世話を焼くわけではない。ただ時折縁を見つめ、見守っている。
互いにどこか見覚えがあると確かめただけで、それ以上、何の関わりもない二人だった。

そんな座り込む二人の前に、人影が現れた。

縁の前に差し出される小さな手。
幼い娘が一人、縁の前に立っていた。

縁が姉を失った時分よりも幼い娘。
オイボレが嬉しそうに顔を上げて話しかけるのに対し、縁はちらと目だけを動かしてその存在を確かめた。

髪は乱れているが、元は美しい艶を湛えていたことが窺える、張りのある黒い髪。
心配そうに縁を見つめる瞳は澄んでいる。
小さな口は、きつく閉じられていた。

娘はいつも黙っている。
今も黙って手を差し出している。手には器があった。
幾つも欠けがある、薄汚れた器に入った濁り汁。中には、落人群の連中が煮炊きした雑炊が入っていた。

「必要ない」

縁が断わると、娘は縁の前に器を置いて走って行った。
鍋のもとへ戻り、自らとオイボレの分、二つの器を持って縁の前まで戻って来る。
地面に置かれたままの縁の器を見て、娘はオイボレの隣に腰を下ろした。
オイボレ越しに縁を見ている。

「ホッホッホ、ありがたいのぅ、ありがたく戴くとするか、ホレ若いの、あんたも食わんか」

オイボレの催促は続き、娘の視線も突き刺さる。
これ以上断わるのも面倒臭いと、縁は渋々器を手に取った。
味噌汁なのか何なのか、香りも分からぬほど薄い汁。こんな不味い物を再び喉に通す日が来るとは。
縁が仏頂面で汁を飲み干すと、娘は安堵して自らの食事に手をつける。
こんな光景が既に幾度か繰り返されていた。

娘は縁に関わるようになってから、一度も声を発していない。
不思議だが何故だと聞く気は起きない。疑問を放置していると、気付いたオイボレが縁に娘の事情を打ち明けた。
娘が寝付いた後、本人に聞こえぬよう小声で語られた。

「この娘は少し失っておるだけじゃよ、強い悲しみが原因じゃろう。強い娘じゃから、そのうち声を取り戻すじゃろう」

割れた眼鏡の奥でニコリと笑うオイボレ。
それがどうした、俺には関係ない。
縁は事情を知った後も関心を持たず無視を続けたが、娘の世話焼きは続いた。

ある日、縁はしつこい娘を睨みつけた。
すると、いつも以上に顔前に器が差し出された。大人しそうな娘の意外な反発だ。
近すぎる器を煩わしく感じ、縁は思わず払い除けてしまった。
器は転がり、中身は零れ、器を落とすまいと追いかけた娘の体は、地面に倒れていた。

「っく、」

縁から後悔の声が漏れた。無関心を装っていた縁にとって、僅かだが大きな変化だった。
いつもより近く差し出された器が鬱陶しかっただけだ。何も娘に暴力を働くつもりは無かった。
ただ軽く、払い除けただけなのに。

「大丈夫かのぉ、ほれ、立てるか」

呆然とする縁をよそに、オイボレが娘を助け起こした。
手足についた砂を払ってやると、娘は小さく頭を下げた。

中身は零れてしまったが、器は無事だ。
娘は落ちた器を拾うと再び中身を入れて戻ってきた。
今度は縁に叩き落とされないよう、程良い距離で、地面に置いた。

縁は舌打ちをした。
喋らなくても耳は聞こえている。
けれども娘は気にする素振りを見せず、いつも通りオイボレの隣に座り込んだ。

痩せた老人の体にすら隠れてしまう幼子。
対する己は、上海マフィアの頭目にまで昇り詰めた力の持ち主。
鍛えられた筋力は今も健在だ。
縁は、己が有する武力を改めて実感した。世間の人々は、子供は、こんなにも非力なのかと。己も以前は、力なき子供だったのだと。
縁は、今の己の力を認識すると同時に、虚しさに襲われた。

──強さが何だって言うんだ、今更何の役にも立たない、守りたい人を守れなかった……失った者を取り戻せない、いくら強かろうが……意味が、無いんダ……

この日、縁が地面の器を手に取るまで、長い時間が必要だった。
 
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