おつまみ

明】雪代縁・白い哀艶
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「診療所へ届ければいいんだろ」

「えっ」

「鞄だヨ。陸蒸気に乗る前にお前はその鞄を俺に渡せ」

呉黒星は人前で襲ってくる軽率な男ではないが、万一に備えて縁は両手を開けている。
陸蒸気に乗る前、連中に見える形で鞄を手渡せば、標的は完全に自分一人に移る。陸蒸気が走り出せば夢主を捕えて人質にすることも叶わない。最も、そんな事をすれば自身の死は免れないと、部下を務めた身なら承知のはず。鞄を餌に人目のない場所へ誘い、交渉すれば良い。
縁は拳を握り、腕に太い筋を浮き上がらせた。拳での交渉、異存は認めない。

「うん……。診療所で待っています」

「そうカ。ちゃんと届けるから心配するナ。陸蒸気が完全に見えなくなってからコトを開始する。全員俺に引き付けるから安心しろ」

夢主は頷くが、胸の内は不安でいっぱいだった。本当に一人で大丈夫か。ちゃんと東京へ来てくれるのか。鞄だけ送って消えてしまわないか。夕べや十年前のように我を失わないか。

「診療所でゆっくり休んでいって、子守唄も歌ってあげるから……ちゃんと来てね」

「外で言うナ」

分かったから夕べのことは口外するな。縁は俄かに照れ臭そうに顔をしかめた。
ちゃんと診療所へ来てくれる。察した夢主はしかめっ面の縁に、思いきり微笑んだ。

駅には朝早くから乗客が集まっている。駅を重要な施設として巡邏する警官も見える。縁は不本意ながら警官と目を合わせないよう振る舞っていた。手配した切符を夢主に渡し、見てみろと顎を振って視線を誘導すると、四方から二人をつけていた男達がギクリと立ち止まった。

「奴らきっちり来ているナ、偉いじゃないカ」

「縁、本当に大丈夫なの」

縁は大きく頷いた。夕べ襲ってきた人数がきっちり揃っている。これで心配せず夢主を送り出せると。

「もう席に座っていろ。陸蒸気が見えなくなるまで見送ってやる。鞄を渡してくれるカ」

夢主は全てを託すべく縁に鞄を手渡した。縁を何度も振り返りながら列車の中へ進んでいく。振り返る度に縁の視界から姉の簪が消える。代わりに見える夢主の顔が余りに不安そうで、面白く感じてしまう。縁は心配するなと得意気な顔を見せて安心させた。

やがてゆっくりと陸蒸気の車輪が回り始める。
呉黒星達は縁を見張って動かない。警官の前で騒ぎを起こしたくないのはお互い様だろ、縁の意図を察知したのか、陸蒸気が行ってしまうまで、ひたすら縁を監視していた。

「さァ、十年前の後始末を始めようカ」

縁は白い髪を覆っていたハンチング帽を外し、顔に狂経脈を浮き上がらせて、鞄を高々と掲げた。
用心深い呉黒星は既に罠を張っているかもしれない。だが問題はない。夢主の鞄を取り戻し、二度と刃向かえないよう躾てやる。
鞄に反応する呉黒星を見て縁は走り出した。
爽やかな朝の空気に似合わぬ騒ぎ。黒い大陸服の男達が一斉に縁を追いかけ、駅に居合わせた人々が何事かとざわつく。縁は後ろを振り返り呉黒星の姿を確認すると、ニィと笑んで裏通りへ誘いこんだ。


誰かと遣り合うのは久しぶりだが、縁は十年前と変わらぬ動きで男達を叩き伏せていった。
夢主が乗った陸蒸気が新橋に着くよりも早く、阿片入りの鞄を処分して、夢主の鞄を取り戻していた。

「横浜の次は東京、東京も久しぶりだナ」

夢主の鞄を手に一人戻った横浜駅。
思えば夢主との約束を果たす為、元々東京を目指していた。十年振りの再開はもう済ませてしまったが、と縁は取り返した鞄に目を向けた。
約束を果たすこと以外、何も考えていなかった。再会した時の夢主の反応など、考えたことも無かった。

ただこの十年、あの時の約束が忘れられなかった。幼い夢主が泣きながら、必死に声を絞り出して求めてくれた約束が。
不意にぶつかって再会した時、夢主は驚いて、喜んで飛びついてきた。すっかり心も回復して、煩いほどの声を聞かせてくれた。何度も何度も名前を呼んでくれた。

「ガキか」

思い出した縁は、フッと笑って歩き出した。
 
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