沖田総司に似た密偵の部下

□9.斎藤の教え -oki-
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私は張さんと朝から再び横浜を駆けまわった。
陸蒸気に乗り込んだのは、昨晩宿に入ったよりも遅い時間。夜の車窓は昼間と全く違う。これはこれで美しいが、二人は疲れのせいもあって黙り込んでいた。

もうすぐ新橋の駅に着く。そんな時に、ぼんやり外を眺めていた張さんがぽつりと言った。

「……ゆうべのコトと、オッサンに言うなよ」

丸一日走り回って遠のいていた宿での記憶。
しかし記憶の入り口を刺激すればすぐに蘇る。私は「うっ」と口を噤んだ。

「面倒臭いやろ」

「言いませんよ、わざわざ……藤田警部補をしらけさせるだけです」

「まぁ、せやな」

ちょっと脅すつもりだった張さんが私を布団に押し倒してから丸一日、ようやく二人の間で話題に上がった。

「文句だけは言うけどな、ケチなオッサンに」

全てはあんな部屋を仕込んだ警部補の責任。張さんは再び口を閉じて、不機嫌な目を夜の車窓に向けた。
捜査に支障が出るのを恐れ、気まずさから目を逸らして横浜市中を走り回った。
詫びが必要か迷っていたのか、張さんはチラチラと度々私を見ていた。未だに詫びの言葉は聞いていないけれど、求めていないから気にしていない。



「寒いなぁ」

「寒いですね……」

夜の駅に降り立って揃ってそう言ったきり、警視庁に戻るまで私達は口を開かなかった。

歩き始めると、白い息が夜の空気に浮かび上がる。
陸蒸気の駅がある新橋から警視庁は目と鼻の先。歩いて間もなく見慣れた門が目に入り、私はちらりと張さんを見て、普段と変わらぬ態度で着きましたねと笑った。

私達は真っ直ぐ警部補のもとへ向かった。
夜遅くとも資料室にいるのが警部補だ。
重たい扉を開くと、予想通り一人仕事に励んでいた。座り疲れたのか机にもたれて立ち、書類を手にして読み込んでいる。

私はいつもの場所に戻ってきた安堵から、肩の荷が下りる気がした。警部補の傍にいるだけで安心してしまう。経験と実力を備えた上司は、存在だけで周りに守られている感覚を与えるのか。
凄いなぁとしみじみ感じていたが、これから報告する任務の結果を思うと、気が引き締まった。

「戻ったか」

警部補は書類の捲られた頁を元に戻し、報告をしろと促した。
張さんは遠慮なく部屋の中をどかどか進み、一番の特等席、革張りの長椅子に座り込んだ。まるで風呂に入った時のような声を出して、「はぁ……」と出張の疲れを長椅子に預けた。

「言われた地区は虱潰しに調べたで、不審な点は無し、事前に聞いた大陸の組織に属する男の特徴、それを満たす男もおらんかったで」

「そうか。ご苦労だったな」

「すみません、何も成果が得られず」

閉めた扉の前で大人しく立つ私は、申し訳ありませんと頭を下げた。
既に寛いでいる張さんが、そんなん言うなやと顔を顰めるが、警部補は気にするなと煙草を取り出した。口に咥えるが、私を目に留めて火をつけずにいる。

「何も無かった、と言うのが今回の成果だ。それより任務自体はどうだった、何事も無く終わったか」

「あぁなーんも問題無しや、何事も無く終わったで。ワイを褒めて欲しいくらいやわ」

実際、市中探索に問題はなかった。初日、横浜遊郭に寄り道しそうになった一点を覗けば。
大人しく頷いていたが、耳をほじりながら報告する張さんに不満の目を向けた。

「どうした沖」

「いえ、別に」

私は俯いた。俯いたまま目の端に張さんを捉えると、目が合って、張さんは急に焦りを見せた。
警部補の視線は私に向いている。張さんがこそこそと訴えてきた。

「ななな何も無かったやろ」

「ななっ何事も無かっただなんてよく言えますね」

私もひそひそと言い返す。

「何かあったのか」

丸聞こえだぞと警部補が冷たい声で間に入ると、張さんはついに声を荒げた。

「なんも無いで!」

「黙れ張、言え、沖。報告は確実にしろ」

「……張さんが、よ、横浜遊郭に寄り道しようとして」

そっちかい!
張さんは内心ほっとしたようだ。

「我慢したやろ、あの時はっ! しかも昔っから遊郭は情報が集まる場所なんや!」

「そんな事って!」

「まぁそれは一理ある」

「えっ」

張さんを庇うんですか。私が衝撃を隠させないでいると、張さんは冷や汗を浮かべながらも、ヘヘッと作り笑いを見せつけてきた。

「ホンマ何もしてへんて、そもそもオッサンの部屋の手配がアカンのや、なんかあったらアカンからワイ宿を出たさかい」

「あの……あの時出て行ったのって……」

「せや、お前の為やでホゲナス! おかげで無駄な金使たわ!」

「ごめんなさい……」

「そうか、逃げたのは張だったか」

警部補が噛みしめるように言うから、私と張さんはきょとんと焦点を失った顔をした。
ゆうべの出来事は伝えていないのに、全て承知とばかりの相槌だ。

警部補は、沖舂次が飛び出すかと思ったがそうか、と一人で覆った予想を咀嚼していた。

「お前も思いのほか甘いな、張。沖、お前は謝るな。張、話を聞く限り貴様が原因だ」

「なっ、何がや」

ワイは何も言うてへんでと張さんが睨んでくる。私も何も言っていないと首を振った。

「あーもう! ワイは帰って寝る、もうえぇやろ! ワイは悪ない!」

不味い事態になる前にこの場を去ろうと、長椅子で休んでいた張さんが飛び起きた。

「張」

「なんや!」

扉を開ける瞬間、張さんの手が止まり、がたっと音を鳴らした。ワイはびびってへんでと警部補を睨みつける。

「今回は、難儀だったな」

「お……おぅ、分かってくれるんやったら、えぇで」

嫌味を言われると警戒した張さんは、拍子抜けして、途切れ途切れの返事をして去って行った。

「さて、沖舂次。本当の所を教えろ」

「えっ、あぁっ」

本当の所。何も聞かずとも全てお見通しの警部補が、お前の口から報告しろと迫ってくる。
見張られていたのかと勘繰ってしまうほど見透かされている。千里眼でも持っているのか。これが幾つもの死地を越えてきた男の洞察力。私はごくりと生唾を飲み込んだ。

「あの……本当に張さんは何も……」

「……」

黙って見下されるだけで、苛烈な尋問を受けている錯覚に陥ってしまう。
この人の目は誤魔化せない。洞察力で部下の全てを把握してしまうのか。
私は観念して、ゆうべの事実を告白した。

「せ、迫られました。その、何て言うか、女として……って言うんですか、押し倒されたのは、その、きっと私が煩かったからで」

「そうか。それで張はどうした」

こんな報告をどう受け止めるのか。怖々と言葉を紡ぎ反応を窺う私をよそに、警部補は淡々と話を進めた。

「出て行きました。本気じゃなかったんです、いつもの冗談で」

「それは本気だ」

「ぇ……でも……」

警部補は我慢していた火をついに点した。極力配慮はする、と私がいない方角に細い紫煙を吐き出して、煙草を吸い始めた。
 
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