-短篇

北@ 紫陽花
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函館山の麓に、横木で境目を表すだけの簡素な階段がある。
勾配に沿って階段を進むと、辿り着くのは碧血碑だ。

麓の入り口から碧血碑まで続く山道、階段、その道沿いを満開の紫陽花が彩っていた。

「夢主、ひとつ摘んで行け」

「えっ、でも……」

「紫陽花は古来、故人を偲ぶために供えられた花だ。土方さんは」

「ふふっ、お花が好きな、風流なお方でしたね」

夢主が納得するや、斎藤は手早く鞘から刀身を一部覗かせて、花を一輪切り落とした。
地面ではなく、夢主の手の中に落ちる。
少し紫がかった、濃い青色の紫陽花だ。

「ごめんなさい紫陽花さん、土方さんはお花が好きだったから、お供えさせてください」

紫陽花に丁寧に語り掛ける夢主を、斎藤は柔らかな眼差しで見守った。
人けの無い山道の奥に佇む碧血碑に花の一つ、摘んで添えても罰は当たるまい。

「先を急ぐぞ」

「はい」

斎藤の導きで、山の中へ歩み始めた。



斎藤が北海道に赴任してから、一年以上が過ぎていた。
便りは送るが、一向に戻れる気配が無く、どうするかと考えていた矢先、夢主が唐突に北の地を訪れたのだ。
函館入りをして、暫く滞在すると宿舎を書いたのがまずかった。
沖田君と一緒に来るならまだしも、単身一人でやって来るとは、我妻ながら恐ろしい行動力。

追い返すわけにもいかず、宿舎そばに宿を取り、斎藤は三日間の休みを取った。
北の地に赴任して以来初めてのまとまった休みだ。

碧血碑は斎藤自身も函館入りして真っ先に訪れた場所。
夢主も行きたいだろうと連れて来た。

もっと言えば、沖田君も来たかっただろうに。子のお守りとは貸しがまた増えてしまったではないか。
そのお守りを申し出たのも沖田自身らしいから責める訳にもいくまい。乳離れはとうに済んでいるが、子連れの長旅は確かに気を使う。道場を閉めたくないのも理由の一つらしい。なかなか生真面目な男だ。
十四になる三島栄次も一緒だ、人手は足りるだろう。

夢主を長居はさせられないが、短い間でも共に過ごし、これまでの罪滅ぼしになれば。
斎藤は後ろを振り返った。夢主があとをついて上って来る。
階段は一段一段奥行きがあり、一歩で進める斎藤とは違い、夢主はちょこまかと急いて段を上っていた。

「大丈夫か」

「えへへっ、大丈夫です」

足もとが危ういのは昔からだ。
斎藤は掴まれと、手を差し出した。
夢主は一瞬「あっ」と恥ずかしそうに目を丸くして固まるが、すぐに頷いて、手を重ねた。
はにかむ夢主に、斎藤もフッとお返しの笑みを見せる。

「勉は元気か」

手を繋いだ二人は、歩みを遅らせて階段を上っていく。

「はい。最近は総司さんの道場に通っては、稽古の真似事をしているんですよ。『おけーこは、まいにちしゅるんれすぅ!』って聞かなくて」

我が子の真似をして、くすくすと肩を揺らす様子から、穏やかな日々が感じ取れる。
妻子の幸せな暮らしを思うと、離れた地で走り回る苦労も無駄ではないと実感する。
言葉に出来ない感情が湧き起り、斎藤は夢主の名を読んだ。

「夢主」

「はい……」

「会えて良かった。遠くまで、良く来たな」

「は……はい」

笑顔で頷く夢主、顔を上げると、目頭が一気に熱くなった。

この地で斎藤の元へ辿り着いてから、初めて聞いた言葉だった。

迷惑を掛ける、怒らせる。勉はどうしたと叱責を受けるのでは。期待と共に不安を抱いて遠路やって来た。
再会の時、斎藤は珍しく驚いた顔を見せた。
当たり前だ、何の前触れもなく、海の向こうにいるはずの妻が単身、顔を覗かせたのだから。

すぐに滞在先を手配して、自身の休みを確保して、優れた密偵らしい手際の良さで対応してくれた。
事務的な対応から一転、今、ようやく柔らかな声を聞いた。
夫婦らしい一時。優しい時間だ。

「どうしても一さんに会いたくて、来ちゃったんです。本当に、会いたくて……一さんに」

「あぁ、分かっている」

怒りはしない。
斎藤は立ち止まり、上って来る夢主を受け止めるように抱きしめた。
泣き出しそうに見えた夢主、宥めるように背中を擦って落ち着かせる。
夢主は斎藤の背に手を回し、花を落とさないよう、茎を握り締めていた。

腕の中に妻がいる現実に、斎藤の目が薄ら細くなる。
間近で感じる夢主の香り。久しい香りだ。
夢主が己の胸に縋るように甘えている。甘えて胸に顔を擦り付ける仕草が懐かしい。
斎藤は頬ずりをするように、顔を寄せた。

「すまなかった。長い間、家に戻れず」

夢主は斎藤の腕の中で、静かに大きく首を振った。

「一さんの任務に必要なことならいいんです。ずっと離れていても、大丈夫です」

大丈夫じゃなかったから、飛んできてしまったのに。
見え見えの嘘ですねと、夢主は笑った。

「私、駄目ですね、勉さんだって一さんに会いたいのに」

「ククッ、それはどうかな。俺の顔を忘れているかもしれん。だがそれで良い、お陰で離れていても淋しく感じないだろう」

「それは……」

「しかし、お前は別だ」

斎藤の大きな手が、夢主の頭を大きく撫でた。
勉は強く育っている。父の不在も勉は成長の糧にしているだろう。そうなれたのは、夢主や沖田君達のお陰。
斎藤は頭を撫でていた手を滑らせて、頬に触れた。

「初めてじゃありませんよ、前はもっと長かったですし」

「そうか、そうだったな」

斎藤は夢主を強く抱きしめ直した。

斎藤自身は淋しさなど気にせず任務に当たっていた。そのつもりだった。
東京や京都での任務と違い、不慣れな土地。広大な北の地、情報が入る度に飛び回り、流石に疲労も蓄積されていった。

現地で出会うのは警官や軍人、まれに役人にも会う。知人の不在は苦にならない。
そのはずだったが、夢主と再会して思い知った。
心通う相手というのは、傍にいるだけで良い影響を与えるらしい。
心身に蓄積された疲労が癒え、解れていくようだ。
階段を上り感じたのは、久しぶりの身軽さだ。体が軽かった。

「夢主」

はい、と言いかけた夢主の唇に、斎藤の唇が重なった。
目を閉じていても、夢主の驚きが伝わる。
そっと、短く触れて、斎藤は体を離した。

「あと半分だ。行けるか」

「は、はい、大丈夫です」

斎藤の励ましに、夢主の笑顔が輝いた。
 
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