-短篇

大】大正斎藤浪漫譚
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ごつごつとした感触が意識を呼び覚ます。硬くて冷たい何かが、背中に圧力を与えている。
目前にはどこまでも広がる空。寒々とした風が頬を叩く。
斎藤は、どこかで倒れている己を自覚した。

「ここは……」

体を起こし、不具合がないか確かめる。すんなりと動く手足、肩の可動も問題ない。
異常はどこにもないが、何かを抱えていた感触が腕に残っていた。

「上野の山か」

立ち上がると景色が一変する。
眼下に広がるのは見慣れた東京の町。だがしかし、所々に違和感があった。

「あの建物は何だ」

近年の建築物は一日二日で建つものではない。
見覚えのない幾つかの建物に、斎藤は眉根を寄せた。
何より一番解せないのは、己は先程死んだはず、という記憶だった。

夢主と共に腰を下ろしたのは座敷だったか、道場だったか、居住まいを正して何やら些々たる話をして、それから心地よい感覚に包まれ、命尽きる瞬間とはこんなものかと嬉しく思ったものだ。

「ちっ」

神の仕業か運命の悪戯か。
何であろうが、死を覚悟した己にもう一度生きろとは野暮にも程がある。
斎藤は町を見下ろして、舌打ちをした。

幸か不幸か、体は己が忙しく飛び回っていた年頃に戻っている。

「ひとまず動くには好都合、か」

死を覚悟した体で蘇らなかったことを幸いと心得えて動くしかあるまい。
まず何をすべきか。
身に付けているのは警官の制服。腰には愛刀。斎藤は己の姿を確かめると、歩き始めた。



山を下る最中、斎藤は数少ない情報を整理して、あらゆる可能性を考えた。
幾つか浮かぶ考えの中で一番己を納得させたのは、一番馬鹿々々しいと思える考えだった。

「ちっ、時を跳躍しただと、阿呆臭い」

しかし先程見た東京の町の発展。
可能性を確信に変えるには確かめねばならない。

こんな阿呆臭い考えに行きついたのは、夢主のことがあったからだ。
かつて、時を越えて現れた夢主。その存在が無ければまずこんな考えには至らない。

「感謝するぞ、夢主」

一番の幸いは記憶の保持だ。
初めて出会った時、夢主は自身に関する記憶を失っていた。
記憶は戻らず、命尽きるまで共に過ごしたのだ。
それなのに再びこうして一人、歩いているとは気分が悪い。

戦う者にとって不死は羨望の存在かもしれない。
だが斎藤は、死んだはずの己が生きている事実を苦々しく感じていた。

さて、山を下りてどこへ向かう。
候補を選別しようと考え始めた矢先、斎藤は見覚えある顔を見つけた。
少々老けて見えるのは、跳躍した時の長さを表しているのだろう。
己が死した世界と一本の糸のようにひと繋がりの世界であり、幾年かだけ時を跳躍して越えただけ。その考えが正しいか否か。
これで確信が持てると、斎藤はその人物を呼び止めた。

「貴様は確か、明神弥彦」

振り返った中年の男は、「おっ」と声を漏らした。記憶よりも太い声だ。
出会った頃は小童だった明神弥彦、今は斎藤を越えた年頃に。力強い眼光からは、数多の苦難を乗り越えて、何かを守ってきたことが窺える。
歳を重ねた弥彦の鋭い眼差しが、見知った顔を見て僅かに緩んだ。

「おっ、おまっ、斎藤一っ?!」

驚いた直後、我に返った弥彦が竹刀を構えた。
剣術の稽古を始めた頃から変わらない。弥彦は相も変わらず竹刀を持ち歩いていた。

「誰だ貴様! 斎藤の野郎はとっくの昔におっちんでるぜ」

お前は死んだと聞かされた斎藤は、こいつは愉快と喉で笑った。

「ククッ、そうか。やはりここは地獄ではないらしい。貴様が生きているならば時代は大正か。何年だ」

「た、大正十年だ」

問われて律儀に答える弥彦だが、竹刀を握る手には力を込めた。
竹刀の先と男の顔を重ねて睨んでいる。隙を突いてチラと視線を動かした。男の腰に刀があるが、触れる気配はない。触れようとしても、させないからなと睨んでいる。
斎藤も、そんな気は無いと両手を上げて見せた。

「そうか。世界戦争はどうなった」

「お、終わったよ、独逸や露西亜、帝国が崩壊して終わったさ」

斎藤が死ぬ前年に勃発した巨大な世界戦争。
その行く末を尋ねられて、弥彦に変化が生まれた。竹刀を握る手から力が抜ける。

「そうか」

目の前の男に浮かんだ憂いの表情。
微かな変化だが、今の弥彦が斎藤の心情を察するには十分だった。

「戦地では恐ろしい数の死者が出たらしい。勝とうが負けようが戦争なんて二度とごめんだ」

「……あぁ」

弥彦は完全に竹刀を下ろした。
警戒を解いた"若僧"に対して、斎藤からフッと軽い笑みが零れる。

「お前、本当に斎藤一なんだな」

「あぁ。俺が俺だと感じているんだからそうなんだろう。全く厄介だ」

人生、己が信じた正義に賭して、すべきことは成し遂げた。心置きなく死ねると思ったら、これだ。
斎藤は大袈裟に肩を浮かせた。同時に、二ッと睨んで剣気を飛ばす。
弥彦は他の誰のものでもない剣気を感じて、竹刀を腰に戻した。この恐ろしい剣気は、真似出来るものではない。幕末を、数えきれない死地を越えた男しか纏えない。そんな男は、この大正の世では数える程もいなかった。

「これからどうすんだ、とりあえず神谷道場にでも行くか、あそこなら広いぜ、案外繁盛してるしな。部屋も余って……」

「必要ない」

時代を確認出来ただけで十分だ。
助けを申し出る弥彦を断るように、斎藤は手で追い払う仕草を見せた。
お前にもう用は無いとでも言うように背を向ける。

「おい、いくらなんでも助けがいるだろ! 何がどうなってお前がここにいるのか知らねぇが、テメェは間違いなく斎藤一だ! 死んだはずの男だろ! 死んだ男がどこ行くんだよ!」

「構うな」

今はまず訪れたい場所がある。
斎藤が歩き出すと、背中に「オッサン!」と怒鳴り声がぶつかった。

「……オッサンはお前だろ、ククッ」

竹刀を握る手に見えた筋の数々、睨みつける目元の皺、白髪が混じり始めた頭髪。
斎藤は見たばかりの現在の弥彦の姿を思い、振り向かずに呟いた。



弥彦と別れて間もなく、何か物足りないと気付いた斎藤は体を探った。
あった。
胸の隠しに煙草を見つけ、取り出した。
煙草を咥えると妙に気が静まる。
斎藤は火をつけて紫煙を燻らせ、記憶が導くままに道を進んだ。
 
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