-短篇

明】しょくらあと
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「おかえりなさい、一さん」

「あぁ、戻った」

すっかり夜は更けたが、夢主は起きて待っていた。
普段は寝ている時間だというのに何とも勘の良いことだ。
斎藤が感心して笑いを含ませた表情で上着を脱ぐと、夢主の表情に変化が起きた。

「……一さん、何の臭いでしょうか」

「気になるか」

「はいっ、これは……何かが燃えたような……」

「石炭か。実は今日……まぁ、それは後で話すとしよう。風呂は沸いているか」

先んじて任務や目的地を仔細話すのは稀だ。今日も夜は戻るとだけ伝え、夢主は任務内容を知らずにいる。
斎藤は何も知らぬ夢主の素直さをいいことに、話を逸らした。

「はい、沸いてますよ。お風呂上がった後はご飯、食べますよね」

「あぁ」

では、荷物は任せてください。夢主は斎藤が置いた鞄を手に取ろうと、ひょいと手を伸ばすが、一瞬早く鞄は遠ざけられた。

「あっ……」

「すまん、鞄はいい。仕事の品が入っているんでな、悪いがそのまま置いておいてくれ。信頼しているぞ」

「はい、もちろんです。ふふっ、覗いたりしませんよ」

「フッ」

そうだな……、斎藤は小さく笑んで文机に鞄を置くと風呂へ、夢主は台所へ向かった。
斎藤は背後にご機嫌な気配を感じていた。


鉄砲風呂で湯の恩恵を受ける。斎藤はしばらく湯船に浸かり、冷えた体をすっかり温めた。
風呂場を照らす灯りを見ると、横浜で見た瓦斯棟の明かりを思い出す。湯が揺れる音は、川辺の水音を思い出す。目を閉じて鮮明に記憶を蘇らせて、耳では、微かに届く夢主の声を聞いていた。

湯浴みを終えた斎藤が部屋に戻ると、信じた通り、鞄は開かれていない。文机の前から動いた様子もない。別に夢主が開けても良いのだが、信頼に応えてくれるとは嬉しい限り。
斎藤は用意された膳の前に座して、同じく座る夢主に目を向けた。

「どうかしましたか」

「いや、お前はもう済ませたのか」

「はい」

「そうか……」

どこか残念とも取れる声の調子に、夢主の目がぱちくりと動く。

……一緒に食べたかったのかな……でも遅くなったら先に済ませておけっていつも言うのは一さんだし……

夢主が言いつけを思い返しながら首を傾げているうちに、斎藤は素早く食事を進めていった。
黙々と口に食事を運び、一言も発さぬまま箸を置く。その間、二人は鞄には一切触れていない。手に触れなければ、話題にも上げなかった。
斎藤は目の端に鞄を入れて、ようやく口を開いた。唸るような声で、うむと漏らす。

「うむ、美味かった。それはそうと、お前にも好い物をやろう」

「えっ、好い物……何でしょうか」

「少し目を瞑っていろ、変なことはせん」

「は……はぃ……」

そうは言われても、何度も言葉を裏切ってきた夫だ。夢主は言われるがままに目を閉じたが、気になって仕方がなかった。
聞き耳を立ててじっと待つと、鞄を開く音が聞こえる。鞄から何かを、好い物を取り出すのだ。
不安は薄れ、期待が高まる。何が出てくるのかドキドキしながら待つ間に、夢主は玄関での会話が途中で終わっていたことを思い出した。

「口を開け、目は瞑っていろよ」

「……」

……口を……なに……

何をされるのか、緊張が走る。夢主が唇を開くと、斎藤の温まった指先が唇に触れた。その感覚に小さく驚き、ビクリとする。
斎藤はククッと笑い、指先で摘んでいる物を、そっと口の中へ押し込んだ。

「……んっ」

「開けていいぞ」

「ん……これ……」

夢主は目を開くと口に手を添えて、口に押し込まれた物を舌で転がした。すぐに舌の上で溶けだして、広がる何か。夢主は、にこやかに見守る斎藤を見上げた。

「しょくらあと。だ、そうだ」

「しょくら……チョコレート! 美味しい……」

口の中で広がる懐かしい味に、夢主は声を上げた。

「ほぅ、やはり知っていたか。どうだ、お前の知っている味と似ているか」

「はい、とっても美味しいです……チョコレートを食べられるなんて……信じられません、美味しいっ……」

絞りだすように漏れる感想、夢主から飛び出した花笑みに、斎藤も嬉しそうに頷いている。
己の選択は間違っていなかったと満足そうだ。
 
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