-短篇

北A 月下の愛逢瀬
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夢主と斎藤は、碧血碑から宿へ戻った。無論、二人が戻るのは同じ部屋。
食事も風呂も終えて落ち着くと、夢主は櫛を取り出した。
幕末、斎藤に買ってもらったあの櫛だ。

櫛に気付いた斎藤が、夢主の手元に視線を留めた。
斎藤も既に風呂を終えて、着流し姿で寛いでいる。制服は任務中、即ち常時身に付けている。寝る時に脱ぐか否か、洗う為に着替えるか、その程度の着脱だ。
今、制服は出番なしとばかりに、部屋の中で干されている。

斎藤が櫛から夢主に視線を移すと、目が合って、夢主がはにかんだ。

「お守りです。持ってきちゃいました」

そう言って風呂上がりの髪を梳かし始めた。
まだ湿り気を帯びた髪。櫛の歯が通りすぎてもいつものように流れず、まばらに毛束が落ちる。
それでも夢主は再び櫛を入れた。

「大家のお婆さんが、櫛は縁起が悪いって仰ってたんですけど」

悪気はなく、夢主は思い出した言葉を口にした。
大家の婆は、昔、東京に辿り着いた夢主と沖田に道場屋敷を貸してくれた。困った時に手を差し伸べてくれる存在だ。

斎藤からは「フン」と曖昧な相槌が聞こえた。
夢主は己の贈り物を否定したのではない。しかし快くもないと、鼻をならしたのだ。

「でも、面白いことを仰ってたんですよ」

心当たりがあるのか、斎藤が反応を示す。微かな表情の揺らぎ。夢主には読み取れなかった。変わらぬ調子で、にこやかな声を繋いでいる。

「あの頃、流行っていたんですか」

「何がだ」

「いぇ……」

若いモンはすぐに流されるからねぇ……。大家の婆のしわがれた声を思い出す。
縁起の悪さをさておいて、江戸の若衆の間で、好いた女子に櫛を贈るのが流行ったのだ。
大家の婆は、夢主が大事に扱う櫛を見て、その流行りを思い出したらしい。
夫婦の契りに貰うたんかと、問われたのだ。

櫛を貰ったのは、まだそんな仲になっていない頃。
違いますと答えたものの、斎藤はそんな意味を込めて贈ってくれたのか、今更ながら訊いてみたくなったのだ。

「俺が世間の流行りに流される男だと思うか」

「いいえ、それは……」

「貸せ」

斎藤の答えは否なのか。
夢主から奪うように櫛を取り、髪を梳き始めた。

「単に、お前が目を留めていたからだ」

「はぃ……」

「不服か」

「そんなっ、嬉しかったです、とても」

初めて手にした時からずっと大切にしていた。
そばで見てきた斎藤は知っていた。
少し困ったように肩を竦める夢主。背後で髪を梳く斎藤にも小さくなる背中が分かる。

「強いて言うならば、櫛を見つめるお前があまりに愛い目をしていたんでな」

えっ、と振り返った夢主が、本当ですかと目を瞬かせた。
素早い瞬きで黒々とした睫毛を揺らして、斎藤の目を惹きつける。
櫛を見つけた時と変わらない愛くるしい目を、これでもかと見せつけられた気分だった。

「それに、こうして触れられるだろう」

夢主を見つめ手を止めていた斎藤が、再び櫛を滑らせた。大人しく前を向いた夢主の髪を、丁寧に整えていく。
髪に触れ、時折肌にも触れてしまう。意図せず、偶然、触れられるのだ。

「あの頃は、触れることもままならなかった。触れたいと願うのが男心ってもんだ。櫛を贈ることでお前に触れる口実が出来る」

夢主は俯いて、赤くなった耳を晒した。

「今は、櫛など無くても」

髪に櫛を入れていた斎藤は櫛をとめて、夢主の頭を撫でた。湿った髪の上を、大きな手がゆっくりと行き来する。風呂上がりの温かい手。斎藤の体温を受けて、夢主の紅潮がさらに強くなる。
斎藤はやがて、指で髪を梳い始めた。指の間に髪を流して落とす。
斎藤が好む、さらさらと溢れる感覚とは違う。だかこれも良いと違いを楽しんで、毛束を落とした。

「夜風で髪を乾かすか。来い」

斎藤は立ち上がると窓の障子を開け、その場に腰を下ろした。
 
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