-短篇

明】肌の触りの記憶に触れて
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深夜、凍てつく水に触れて気が付いた。もう冬か。

寒さも暑さも厭わぬ日々を過ごすうちに、冬の水の冷たさすら忘れていた。
アイツの指先が荒れる季節だ。
そう言えば昔、何度か薬を塗ってやったな。荒れた手を見せるのを嫌がっていたが、恥じる理由がどこにある。働き者の証とはよく言ったものだ。

俺は理由を付けて家に戻った。
お前は既に眠っている。俺は久しぶりに薬入れを手にした。
蓋は難なく開き、薬の表面は窪んで、頻繁に使用している跡が見られる。
それほどまでに荒れているのか。布団を捲って手を確かめたいが、布団の中で温まった体は冷たい外気に反応するだろう。

「起きるまで待つか」

思えばこの薬入れも随分と長いこと使っている。俺と夢主の歴史を知る存在の一つだ。
元は俺の物だった。夢主に貸すようになり、今では夢主の物と言っていい。

柄にもなく昔に思いを馳せてしまった。
俺は懐かしい日々をフッと笑んで、薬入れを文机に置いた。

夢主は何も気づかず眠りの中にいる。
隣で眠るのは、あの頃のほうが常だった。衝立や襖に遮られていても、存在を感じた。
今ではたまに帰る程度。お前にとってどちらが良いか、正直、俺には分からない。まぁ、何かに怯えずに済むのは良い暮らしだろう。
俺は夢主をひと撫でしそうになり、手を止めた。

折角だ、俺もひと眠りするか。朝まで猶予がある。
久しく広げられていない俺の布団。だが、夢主はこまめに干してくれているようだ。広げて表面に手を滑らせる感覚はサラリと心地良い。着替えて布団に身を入れると、埃っぽさもカビ臭さもなく、安らぐ感覚に覆われた。

耳に届くお前の寝息は童のように健やかだ。
俺は静かな寝息を寝耳に聞きつつ、幾日ぶりかの深い眠りを待つ。
深く長い眠りは、万全の体調を取り戻す。体の隅々まで細やかな手入れを施すようだ。体だけにとどまらず、心の奥底まで整っていく感覚。布団に身を任せて得るこの感覚が、安心というものなのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、俺の意識は完全に失せて、深い眠りに落ちていった。



朝、俺は部屋に陽が射すよりも早く目覚めた。
当然の如く夢主より早く起きた俺は、暫し静かな時を過ごし、やがて目覚めたお前が寝惚け眼で驚き飛び起きるさまを楽しんだ。
心身共に軽くなった身でお前を見ると、実に穏やかに見える。

「ぉはよぅございま……え、えぇええっ、一さんっ! おぉ、お帰りなさいっ! 暫く戻らないんじゃっっ」

「ククッ、ちょっと思うトコロがあってな」

「思う……トコロ」

「夢主、手を出して見ろ」

「え、手ですか」

布団に半身潜らせたままの夢主、手を伸ばし掛けたが、自分の指先に目を止めて引っ込めてしまった。

「あの、ちょっと荒れてるので」

「だからだ、阿呆」

え、と首を傾げる夢主に、俺は薬を見せた。

「昨晩水の冷たさに気付いてな、昔塗ってやっただろう。久しぶりにしたくなってな」

「えっと、それは……そんなこと、ありましたっけ」

「……わざとだな」

忘れたフリをして。
ニヤリとして顔を覗くと、夢主の顔が色づいた。しっかり覚えているらしい。

「お前の肩に塗ってやったこともあったな、あれは土方さんの薬か。あれは良かった」

「良かったって、もぅ」

「ククッ、すまん」

夢主も俺も、壬生での彼の日を思い出していた。同じ記憶だ。
彼の日の薬の記憶は、夢主にとっては鉄扇で叩かれた痛さと、体を引きずられた恐怖も伴っている。
眉根を寄せる夢主に俺は詫びた。

「あの時お前を案じた気持ちは誠だ。少々悪ふざけをしてしまったのも事実だがな」

そうです、と過去の悪ふざけを責めて、夢主が頷く。
あの時のお前は傑作だったからな。

「手に塗ってやったのは、これだな」

薬入れを夢主に向け、姿を確認させた。
表面の細かな傷を記憶してしまうほど見慣れた薬入れ。夢主は観念したように頷いた。

俺はお前の傍まで寄り、手を取った。
冷えやすい体質のお前も、さすがに布団の温もりを残している。薬が馴染む温かさだ。

「男に塗られると痛みが和らぐ、相手が俺なら尚更だろう、違うか」

夢主が何かを言い淀む。
様々思い出したらしく、お前の頬が血色を増す。俺の手の上では、細い指がぎゅっと閉じた。

「図星だな」

「は、一さんはどうなんですか、刀を握るんですから指先は大事ですよね」

ことを回避しようと話を逸らす。
俺は躊躇わず指先を見せつけた。

常に手袋で覆われた俺の指先は、滑らかな肌と言えるだろう。
髪を撫でつける油は肌にも良い。手入れをしては手袋で油分を浸透させている状態だ。
お前は"ぐうの音"も出ず、まさに言葉を飲み込んだ顔を見せて不満を表した。

「薬が必要なのは誰か、一目瞭然だな」

見れば分かるだろうと指先を目の前で踊らせてやると、夢主の赤い頬が丸く膨らむ。
指の動きにあてられたのか、頬の赤みは耳まで広がっている。

「く、薬と言っても軟膏です、一さんも言ってたじゃありませんか、椿の油を軟膏に混ぜたようなものって。ですから私が一さんに塗ってあげます。塗っても問題ないじゃありませんか」

必要ない。正当な返答を飲み込み、俺は「ほぅ」と漏らした。

「手、出してください」

「いいだろう、任せるさ」

面白い。
何がしたいのか、自分がされたくないからとった行動なのか。本当にそれだけか。
俺は揶揄って詰め寄りたい衝動を抑えて、手を差し出した。

「確かあの時、一さんはこう……」

意図してしなやかな動きで差し出したが、夢主は無視するように俺の手に触れた。
恐々と、腫物でも触るような警戒を見せている。擽ったいほどの軽い感触だ。これで薬を塗れるのかと、揶揄い笑っても許されるだろうか。

「ほぅ、俺の真似をしてくれるのか」

「はい、一さんの塗り方を……し、しません、真似しません!」

フフン。俺は堪らず笑っていた。

俺は以前、二通りの塗り方をした。
夢主が先に思い出したのは、艶めいた動きで塗り込まれた記憶らしい。
なかなかどうして厭らしいじゃないか。
俺の気付きを察して、夢主はきっぱり違いますと言い切った。

「丁寧な塗り方を真似します」

厭らしい自分を否定するように、お前はもう一つの記憶を真似すると宣言した。
 
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