-短篇

幕】灯 −ともしび−
1ページ/3ページ




幕末、同じ二人の、違う物語────





触れることも儘ならぬ男と女が、細い月の夜、ひとつの部屋で向き合っていた。



始まりは前川邸、斎藤一の部屋だった。夢主は隊に身柄を預け、斎藤の部屋に世話になっている。
既に布団に身を入れた夢主を余所に、今宵、斎藤は行灯明かりを頼りに、一人晩酌を楽しんでいた。総髪の髷の結いを残して、他はいつでも眠れる姿に整っている。

斎藤が部屋で一人呑むのは珍しい。酒を乗せた漆塗りの盆は前川家からの借り物だ。酒を注いで徳利を置くたび、コトリと硬い音が鳴る。たまに混じる斎藤の息音が溜め息のように響き、幾度も夢主の耳を突いた。

気になって眠れぬ夢主はやがて身を起こして、斎藤の酒を止めた。
どうせ眠れぬのなら暗い隅に縮こまっていないで、こちらへ来い。夢主は誘われるままに布団から離れて、斎藤の傍に端座した。

用意された酒器は一人分。斎藤の野暮ではない。夢主は酒が苦手だ。夢主に呑ませる気はなく、ただただ独りで酒を呑みたい、そんな気分だった。

行灯に照らされる斎藤は灯色に染まり、顔には陰影が強く浮かんでいる。灯に合わせて揺れる影、斎藤の薄い頬の線を露わにして、窪んだ目元に影を落とす。影に埋もれているはずなのに、瞳は灯の色を映して、強く美しい光を湛えていた。

手持無沙汰の夢主は、言われるでもなく、酌をすべく盆の上に視線を滑らせた。
ひとつの猪口に対して並ぶ三本の徳利。既に空になった一本と、手付かずの一本、今まさに斎藤が手酌をしていた一本。盆の上の姿が、斎藤の一人酒の様子を語っている。

徳利を手にした夢主は、ちらと上目で斎藤を覗き見た。ぶつかる視線の先、影の中、黄金色の瞳が耿々と灯を映している。瞬く度に惹きつけられる輝き。小さく強い輝きは、怪しく揺れていた。

夢主は息を呑み、視線を落とした。白く小振りな猪口を際立たせる大きな手。指は節榑立っているのに、すらりと伸びて美しい。

──男の人らしい手なのに、綺麗で……なんだか、ちぐはぐな手。

感想を抱いて見つめていると、ここに来たばかりの頃に触れられた感覚が湧き起こった。身の潔白を示す為に受けた汚辱。美しい手の温もりや感触など覚えていない。覚えていられなかった。蘇ったのは羞恥心。あの時はただ、逃げ出したくて堪らなかった。逃げられぬ恐怖を和らげようと気遣ってくれたのは斎藤、けれども、初めて羞恥を植えつけたのも斎藤だ。

今考えることではない。夢主は湧き起こった感覚を振り払うように首を振った。隊を守るべく貫かれた義なのだと思い返し、その後に受けた誠実な対応の数々を思い出して、自らを勇めた。
余儀なく遂行された任に対しては、斎藤ですらわだかまりを覚えていた。

斎藤の手は止まったまま、微動だにしない。
夢主は強張る手の力みを解いて、酒を注いだ。
小さな猪口に、小さな注ぎ口。美しい指を濡らしてしまわぬよう気を張ると、夢主の手が震え始める。震える自分に気づくと、夢主の顔は紅潮した。

「どうした」

「あっ」

「……俺が怖いか」

ビクリと夢主の肩が硬直した。幸い、斎藤は酒に濡れずに済んだ。恐る恐る注いだ酒は、小さな猪口をちょうど満たして止まっていた。
夢主は涙目に近い上目遣いで斎藤を見るが、すぐに俯いてしまう。

「付き合わせて悪かった。向こうに戻っていろ」

俯いていても、斎藤が顎で衝立の向こうを差したことが分かる。怖がらせる気も困らせる気もないと伝える気遣いは、皮肉にも夢主を戸惑わせた。

「いぇ……」

「構わん」

斎藤はあとは手酌で飲むさと一気に酒を流し込み、酒を味わうような太い息を喉から漏らした。大きな溜め息のような深い息に、夢主の顔が上がる。

「怖くありません、すみません、違うんです」

徳利を戻し損ねた夢主が、両手でそっと持ち直した。陶器のひやりと冷たい感触が両掌に伝わり、夢主はもう一度徳利を持ち変えた。

「隠さずとも良い、俺が怖いんだろ」

そもそも女が一人、荒くれ者共の中に身を置いて、怖さを感じぬはずがない。現に身を以て恐怖を味わっている。いくら世話役と言えども心は許していないだろう。
斎藤が空になった猪口に訊かせるような沈む声で言うと、夢主は声を荒げた。

「違います! 怖くなんかありません、最初からずっと、斎藤さんは怖くありません!」

「ほおぅ」

首を垂れる夢主を声で撫でるように、斎藤はゆっくりと呟いた。
夢主の小さな唇が俄かに尖る。伏せた目で何処かを睨むさまから、何かを堪えているのが窺える。

「俺の傍にいたくないと、嫌がっていると聞いたが。俺の部屋にいるのは気まずくて仕方が無いんじゃあ、ないか」

「そんなコトありません! どなたですか、そんなコト……私、避けていません。離れたいわけじゃ……」

「四六時中こんな男の監視下にいるのは嫌だと、顔を見るのも疎ましい。他に望む男がいると」

「違います!」

「ならば、傍にいたいと願うのか。俺の傍に」

やけになる夢主はどこか痛々しい。だが、斎藤は宥めるどころか、嘘を織り交ぜて責めるような口調で問うた。
夢主は返答に窮して唇を震わせた。夢主は何も望んではならないと自らに言い聞かせて戒めている、そんなことは斎藤も承知だ。
心を乱す夢主の姿は妙に男心を唆る。気遣うつもりが、いかんな、そう思ったが己を制するには遅く、斎藤は続けていた。

「お前も土方さんから聞いているだろう、俺に任せると」

「は……はぃ」

「お前の全てを引き受けている」

「そう……です」

顔を上げた夢主は、強い視線に捕らわれた。縄で縛り上げられるような強い緊縛感に襲われる。
斎藤に監視され、同時に守られている。困りごとの相談相手も斎藤だ。全ては斎藤に……。夢主は生唾と共に、何かを飲み込んだ。その時、無意識に唇を舐める緊張からくる仕草を、斎藤は見ていた。目を細めて見つめ、眉間に皺を寄せた。

「俺の世話を受けるのは嫌か」

「いぇ……感謝しています」

「そうか。世話とは、心身に及ぶ。だろう」

「はぃ、寝食お世話になっています、それに……」

怖さを覚えた夜は、ただ傍にいて、乱れた心が鎮まるまで支えてくれた。泣きわめいた時も疎まず、時が過ぎるのを待ってくれた。心が壊れずにいられたのは、斎藤のおかげ。夢主が胸の奥の温かさに触れるのを見て、斎藤はふっと目を弛めた。

夢主がその優しい変化に気付くより早く、斎藤は目を伏せた。視線が外れ、夢主の体の強張りが失せる。しかし、まだ体の奥が締め付けられるように痺れていた。温かさと痺れ、相反する感覚に力が抜ける。夢主は指先から滑り落ちそうな徳利を、盆に戻した。
 
次へ
前の章へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ