-短篇

幕】灯 −ともしび−
2ページ/3ページ



「見守ってくださるの、感謝しています……いつも、傍で……」

「これからも俺の傍にいられるか」

「あの……」

夢主は真っ赤な顔で俯いた。
傍にいてくれる斎藤の存在は、傷んだ心を少しずつ和らげてくれる。いられるか否かと問われたら、傍にいたいと願ってしまう。許されぬ望みと知っていても、抱いてしまう望みだった。
自分が抱く望みと、斎藤が述べる言葉の意味は違う。知っているが、すれ違う意味でも今は構わないだろうか。

「もちろんです、これまで通り……お世話に、よろしく……お願いします」

「傍にいる、か」

夢主は黙り込んでしまった。
傍にいます。たった一言が言えなかった。世話役は目付け役、傍にいろと言う言葉の意味は、ただの監視の都合に過ぎない。
それでもいいから頷きたいのに、体が動かなくなっていた。

「俺が傍にいようが、嫌ではない」

あっ、と夢主の唇が開き、頬の色づきが増した。言えない本音を先回りして覗かれたような、決まりの悪さ。
斎藤は手酌を進め、二本目の徳利を空にした。最後の一滴まで味わおうと徳利を振ってから、元に戻す。盆に徳利が当たり、先ほどよりも大きな音が鳴った。

「嫌じゃあ、ない」

三本目の徳利を手に、呟いた。
七分目まで注ぎ、手早く飲み干す。嫌ではない、と口の中で呟いて、何度か手酌を繰り返した。

「嫌ではない、まどろっこしい言い草だな」

明瞭な低い声に、夢主は増々赤みを増して、気まずそうに唇を歪めた。
ずっと斎藤の一人酒を見つめていた。酒を注ぐ仕草、袖から覗く腕、酒濡れた唇。猪口に添えられた手はやけに艶っぽい。目を離せずに、見つめていた。

「嫌でなければ何だ」

問われた夢主は、堪えられずに唇の形を幾度も変えた。
嫌でなければ、何なのか。夢主の心には、ひとつの言葉が見えている。
無防備な眼差しに気付いていた斎藤は、再び視線を絡めた。

「嫌でなければ」

問われ続け、夢主はようやく答えた。

「…………好ましい、で、しょうか……」

消えそうなか細い声で、囁くように告げた答えを、斎藤が低い声で繰り返す。

「好ましい」

ぼそりと呟いた斎藤は、限界まで酒を注いだ。

「ならば構わんか、俺がお前を口説いても」

「えっ」

「酒を注げ」

言うなり、斎藤は勢いよく猪口を仰いで空にした。
突き出される空の猪口。驚く夢主に答える間を与えず、酌を命じる。珍しく行為を強いる口調に夢主の驚きが増す。夢主は軽くなった最後の徳利を持ち上げた。
斎藤の指には、急ぎ飲み干した名残の酒が雫となって垂れていた。肌を伝い、ぽたりと落ちて、畳に沁み込んでいく。

「酔って……いますね」

酌をするのは嫌ではない。強いられたとも思わない。なのに何だか腑に落ちない。夢主は本音を口にした。

「いいや」

「酔ってます……」

繰り返した夢主は、自分を責めた。こうして傍で酒を注ぐのが本当は楽しいのに、素直に慣れない自分を知っている。
心にかかる霞は自分のせいだ。口説いてもいいかなんて、冗談に決まっている。斎藤が得意な戯れだ。期待してしまった自分に嫌気がした。勝手に舞い上がり、想いが昂るのを恐れる余り、素直になれない。

楽しいお酒に付き合ってあげるのも悪くない。いつものお礼に、珍しく饒舌なこの人の話を聞く。楽しい一時なのに、夢主は受け入れられずにいた。

「この程度で酔うか阿呆」

「本当に酔ってるみたいですよ……」

「この程度で酔わん。が、お前がそう思うなら構わんぞ。酔った勢いとは言うもんだ。酔ったついでに幾つかお前に伝えておくか」

「なんで……しょうか」

「そうだな、灯りがあっては到底語れん話だ」

「そう、なのですか……」

「あぁ。聞きたければお前、火を消せ」

フッと笑む斎藤を見て、夢主の瞳が大きく揺れた。動揺した手から徳利が落ちそうになる。
冗談ではないのですか。真意を探って見つめ返していると、指先が震え始めた。揶揄うだけならやめてくださいと訴える瞳にも、斎藤は引かなかった。

「出来るか、いや、出来んだろうな」

ククッと笑う斎藤は、夢主を見つめて離さない。揺れる夢主の瞳には、恥じらいの涙が浮かんでいた。

「そっ、それは……」

灯りを消せば、語られる話。
夢主は持っていた徳利を、震える手で盆に戻した。
すぐさま斎藤の手が伸びて、それを持ち上げる。中身を確かめるように軽く振った。余裕を見せる仕草に、夢主の胸の奥がツンと締め付けられた。

「出来なければ教えてはやれん。まぁ無理だろう」

「斎藤さんは……意地悪です」

「あぁそうだ。意地が悪く、恐ろしい男だ。お前も怖いんだろう」

「怖くありません、何度も言わせないでください。怖くは……ありませんから」

「ならば消せるか」

消せないんだろう。

酒を飲み下す音が鳴り、斎藤の尖った喉仏が大きく上下した。
夢主に見られた斎藤が首を傾ぐと、首の筋が浮き上がる。行灯が作る影が、斎藤の首の太く逞しいさまを見せつけた。

斎藤は最後の一杯を注ぎ、猪口も徳利も盆の上に並べた。揃った酒器は、時を待つように整然としている。最後の一杯を前に、答えを決めろと言いたげだ。斎藤はおもむろに両手を上げた。

袖がずり落ちて覗く鍛えられた腕。斎藤は結い紐を解いて総髪の髷を下ろした。流れ零れる髪が、筋肉質な首に触れる。漆黒の髪もまた行灯の明かりを受けて、怪しさを増していた。体が動く度に流れて濡れ髪のように艶めく。顔を隠す髪を掻き上げる姿は、余りにも艶めかしかった。

「消さないと……いけないんですか、消さなくても……」

「消さずとも構わん、と。お前は大胆な女だな」

何を言っているんですか。夢主が睨むと、斎藤は手を下ろして、顎で行灯を差した。酒が無くなる前に決めろとばかりに、猪口を持つ。

夢主は行灯明かりを受けて、火照った顔を更に赤く染めた。

「だって……」

だって、いつもの冗談なのでしょう。それに、自分がいてはいつの日か貴方の障壁になる。そうじゃ、ないんですか。
夢主は、灯の揺らぎに心を捉われていた。いっそ燃え尽きてしまえばいいのに、灯は燃え続けている。微かな煙と音を出して燃えている。
この灯り一つが二人の世界を変えてしまう。一息で消える灯が、二人のこれからを決めてしまうなんて。

──斎藤さん、貴方は消して欲しいんですか。消しても、いいんですか……。

小さな炎に問いかける夢主の耳に、憂いに湿った声が届いた。

「やはり消したくはないか。すまん、度が過ぎたらしい」

最後の酒を呑み干した斎藤が目を伏せた瞬間、夢主は灯りを吹き消した。
強い息音が消えるか否かの間合いで激しい衣擦れの音が聞こえ、夢主の手が握られた。行灯を倒す勢いで近寄った斎藤が、有無を言わさず夢主を抱き寄せる。
暗くなった部屋の中を、消えた灯の匂いが薄らと漂った。






──完──






後書 ▷▷
 
次へ
前へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ