-短篇

明】まとわる誰かの紫煙
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ほんの些細なことで、二人は喧嘩をしてしまった。

夢主は考えなしに、斎藤の前から逃げ出した。
意図せず向かったのは歩き慣れた通り。ぼんやりと地面をなぞるように視線を落として歩いていた。傾いた陽が作る陰影が、地面の凹凸を浮き上がらせている。

日が暮れる前には戻らなければ。沖田や妙、誰かに甘えて一晩離れたとしても、家に戻るのが苦しくなるだけだと分かっている。夢主は歩みを戻したいのに出来ず、進んでいた。

「早く、戻らないと……」

でも。
不意に立ち止まった時、流れてきた煙が目に染みた。続けて喉の奥を締め付ける刺激が襲う。煙草の煙だ。
夢主が二度三度咳き込むと、男が近付いた。突然視界に長い影が現れて、続けて脚絆も付けぬ毛深く無骨な足が現れた。
驚いた夢主が顔を上げると、

「おぉ悪いねぇお嬢ちゃん、煙草、駄目なのかい」

そう言われ、見知らぬ男から二度目の紫煙を受けた。間近で与えられた刺激。
涙が滲む目を男から逸らし、一目散に逃げだした。背後では、幾人かの男達が笑っていた。

堪えていた涙が、紫煙の刺激でこぼれてしまった。情けなさが拍車をかける。涙が頬を伝って止まらない。

周りを見ていれば、毅然としていれば、斎藤のもとから逃げ出さなければ、喧嘩なんてしなければ。
涙が頬を伝う度に、今更の後悔が膨れ上がった。紫煙の刺激は消え失せても、情けなさは消えない。

「もう、馬鹿……」

夢主は人けのない土手で立ち止まると、袖で涙を拭った。子供のようにごしごしと何度も拭う。
激しく泣いたつもりはないのに、ヒックヒックと呼吸が乱れ、肩が揺れる。乱れ動く影の向こう、土手の下では川が穏やかに流れていた。

落ち着きを取り戻そうと、夕陽を映す川面に目を落とし、大きな呼吸を静かに繰り返す。

もう大丈夫。
自分にそう言い聞かせて目を閉じた時、再び苦手な臭いが鼻を突いた。
苦手だけれども、どこか懐かしさのような親しみを感じる臭い。

「嫌いだけど……大好きです」

振り返ると、斎藤が立っていた。

「全く阿呆が。泣くくらいなら」

「泣いてません」

夢主は強がりを言って、斎藤に抱きついた。

「袖が濡れている。それに目尻が」

「これは、煙草の煙が目に染みたんです。今じゃなくて……知らない男の人に、吹きかけられて」

ちっ、と大きな舌打ちが一つ、響いた。

ふふっ。目尻に滲んだ涙を斎藤に擦りつける夢主から、微かに笑みが漏れる。喧嘩していたことなど忘れたように、二人の影はひとつになっていた。

「余計なコト言っちゃいました。本当に余計なコトです。でも、ちょっとだけ嬉しいです」

今度は斎藤から、大きな溜め息が漏れた。

今の舌打ちはお前に向けたものだ。心配をかけやがって。嫉心を煽るつもりか阿呆が。それに煙が染みたにしろ、泣いていたのは事実だろう、お前の心が泣いていた。
そう言いたかった斎藤を止めたのは、夢主だった。

夢主が腕を強く締めると、斎藤は煙草を投げ捨てて、軽く抱き返した。
幼子をあやすように優しく、体の上で手を弾ませる。弾ませるたびに夢主の力みが増していく。それでも構わず、斎藤は続けた。穏やかな川辺で繰り返す静かな動き。
斎藤は夢主の満足を感じるまで宥めて、体を引き剥がした。

「さぁ、帰るぞ」

「……はぃ」

やれやれと面倒臭さが滲む声。それでも、冷え切った空気で体を壊す前に行くぞ、そんな仕草で帰り道を誘う斎藤に、夢主の顔は綻んでいた。

「しかし、余所の男の紫煙がお前を擽るとは快いものではないな」

「えっ」

「いや、独り言だ」

己に寄り添い歩く夢主を横目に入れた斎藤は、変わりない姿を確かめて視線を動かした。
滑らせた視線は、きょとんと見上げる夢主と目が合い、止まった。まだ潤む目に映えた夕陽の色を見て、刹那に見つめ返していた。ほんの僅かな時、斎藤は目を奪われて、胸の奥を握られる感覚を得ていた。

「フン」

「あぁっ、待ってください」

鼻をならした斎藤は歩みを速め、煙草を咥えた。
夢主は小走りに追いかける。長く伸びた影はすぐに一つに重なった。
たんまり溜められた斎藤の紫煙は夢主には向けられず、冷たい空に消えていく。
二人の後ろには、重なった長い影と、細くなびく紫煙が続いていた。




❖後記❖ >>
 
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