斎藤一明治夢物語 妻奉公

□16.前ぶれ
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夜遅く、仕事を切り上げ家に戻った斎藤は、夢主が眠る部屋で、文机に静かに荷物を置いた。
動きを止めれば妻の息遣いが聞こえてくる。

「遅くなったな」

夢主と話したいが朝までお預けだ。
呟くと暗い部屋の中、仕事の姿から寝姿へ衣を変えた。


朝、早く起こしたい気持ちを抑え、斎藤は夢主が目覚めるのを待った。
しかし家を出る時間が迫り、斎藤は夢主の前に屈んだ。いつもの仕種で妻の白い頬をそっと触れて刺激する。

起こされた夢主は小さな呻きに似た音を喉で鳴らし体を起こすが、眠そうに重たい瞼で座っている。
庭の木の上では行ったり来たり、枝を揺らす小鳥達のほうがよほど元気だ。可愛いさえずりが聞こえてくる。
斎藤は目覚め切らない布団の妻に、昨夜置いた文机の上の包みを渡した。

「ん・・・、これは・・・」

部屋に差し込む朝日を眩しそうに、渡された包みを見ようと目をこする夢主に、斎藤は顎を動かして開けてみろと促した。

「っ・・・一さん!」

斎藤はそうだと言わんばかりにゆっくりと頷いた。
包みを開いて驚きで目を覚まし、顔を上げて己の名を呼ぶ姿に斎藤の目元も柔らかくなる。
夢主が手にしているのは斎藤が紋入れに出していた乙女椿色の小袖だ。桜のような優しく淡い赤みある色が夢主には良く似合った。

「小袖、一さんの紋になってます!」

「俺達の、だ」

「ぁ・・・」

共に生きる二人には一つの紋があれば良い、共に背負うものが一つ。
頷いて「はい」と微笑む顔が、まるで夕焼けに照らされたように色付き始めた。朝の光の中ではとても目立つ紅潮だ。

生地に描かれていた覗き紋は送り主を表すもの。
斎藤にしてみれば己の存在の証を刻む気持ちもあった。どこぞの誰かが夢主に目を付けようが背中の紋の意味を知れと届かぬ脅しだ。

そして何より運命を共にする生き方を自ら選んだ証、夢主にも選んで欲しいと託したもの。
京を出る夢主に渡した斎藤の想いがようやく形になり戻ってきた。
九枚笹の一部が覗くように描かれていた控えめな姿が、立派な九枚笹の紋へ変わっている。

「ありがとうございます」

礼を告げて再び小袖に目を戻す夢主に斎藤も満足そうだ。
大切な一枚を嬉しそうに眺め心を弾ませている。

「それになんだか・・・綺麗になっています・・・」

「あぁ、職人が頑張ってくれたんだよ。衿も汚れた場所が見えないよう付け変えてあるな」

「凄い・・・そんな事が出来るんですね、すれてた場所も・・・縫い込んであるんですか」

「少し短くなっているが問題ないだろう、見違えたな」

「はい、一さん本当にありがとうございます、良い職人さんに出してくださったんですね」

「"つて"は色々とあるからな」

フッと少し得意気な夫に夢主もクスリと頷いた。
仕事を通じて様々な人間を知っているのだろう。

「あの、もう一つの約束は覚えていませんか」

「もう一つだと」

「はい、警視庁への道のりを教えてくださると・・・いつも朝から忙しそうなので私も待ってたんですけど・・・」

「そうだったな。忘れちゃいないが、なかなか落ち着かなくてな。連れて行ったはいいが帰りに困るだろう」

「そんな、帰り道なんて一人でも大丈夫ですから!本当に一さんはいつも心配性が過ぎます」

「阿呆、お前がどんな目にあってきたか忘れたか。とにかくお前の足ではかなりの距離だ。一人で帰す訳にはいかんだろう」

「もぅ」

「また今度だ。忘れてないから大丈夫だ。行ってくるぞ」

「はぃ・・・」

朝から困らせてはいけないと夢主は素直に斎藤を送り出した。
手元にある二人の紋が入った小袖を胸に抱けば、それは小さな悩みに感じられる。

「でも・・・そうだ」

夢主は悪戯にふふっと笑い、布団から立ち上がった。
 
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