斎藤一明治夢物語 妻奉公

□24.歯車の予感 ※微R18
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明治五年。

この年、容赦ない厳しい残暑が続く中、熱く湿った風が吹く港町である事件が起きた。
それは生きる術として身体を売る妓達の誇りを傷つける政府の発言にまで至ってしまう。
事件は国際問題に発展し、幾度も裁判を重ねて最後の判決が下るまで三年を要する。

国際裁判で扱われたこの事件はマリア=ルーズ号事件と呼ばれた。
ペルー船に奴隷のごとく拘束されて労働を強いられていた清国人達が、助けを求めて船から海に飛び込んだことから始まる。
彼らを偶然救助したイギリス人達の助言のもと、奴隷を開放すべく日本は世界の裁きの場に立ったのだ。

それは人道的な行いだったが、その過程で指摘された『遊女』の問題を日本政府は『あれは人身の自由を奪われたもの、すなわち人ではない』と存在を切り捨てた。
その遺恨が後に遊女の一人、吉原の最高峰である花魁こと昼三の華焔を追い詰めることになる。

清国人達が海に飛び込んでから数ヶ月、海の水が飛び込めぬほど冷たくなった頃、吉原にも事件の噂は広がっていた。
由美こと華焔はこの時既にも関わらず指名が後を絶たず、引手茶屋に断りの手紙を入れる事すらある吉原一の存在だった。
薩長閥の高官すらなかなか相手にされない高嶺の華。

「姐さぁん・・・」

華焔の隣で、世話を務める妹分の新造・華火が心配そうに呟いた。
目の前には渋い顔をした楼閣の主が座っている。寒さに弱いのか、綿入りの上着を重ねて着ており、男の肥えた体がより大きく見える。

「あぁ全く腹が立つ!!何だってのさ明治政府は!私は絶対に政府関係者の客は取らないからね!」

「そうは言っても華焔、そちらの筋のお客さんはたいそう払いもいい、考え直してはどうだい」

「嫌だと言ったら嫌だね、お断りだよ」

人気の華焔の客の取り方について楼主が苦言を呈していた。
元々薩長閥の客を嫌っていたが、マリア=ルーズ号事件をきっかけに、遊女の誇りを傷つけた明治政府に関わる客を一切取らなくなったのだ。

「どれだけ大金を詰まれようが、私の誇りに掛けても私らを人間扱いしなかった男なんてお断りだよ!私には客を選ぶ権利があるんだから、幾ら楼主の父さんが頭を下げたってこればかりは曲げられないね!」

「あんたは本当に人気なんだよ!その気になりさえすれば身請けもすぐだ!政府高官の人物に身請けだってしてもらえるんだよ、分かるかい、そうすれば赤猫楼にも大金が入るんだ!」

「知ったこっちゃないよ!仕事はきっちりしているだろう、そんな身請け私は望まないね。自分の力で上り詰めてみせるさ」

華焔は元は商家の娘として恵まれた生活を営んでいた。
ある日突然、御用盗を名乗る賊に一家を皆殺しにされるまでは。

蝶よ花よと育てられた箱入り娘が身を買われ、男達を慰める事で生きる術を手に入れる。
どれほど悩み苦しんだか。欝々と迫る想いを割り切って全てを受け入れ選んだ道、誇りだけは守ろうと心に決めて生きてきた。
今更その誇りを汚されるなど、決して許されない。

生まれ持った美しさと、恵まれた生活の中で身につけた芸や知性、品のある仕草。華焔は既に吉原一の花魁まで上り詰めていた。
あと残る道と言えば、纏まった金を出し身請けをしてくれる旦那を見つける事だろう。人気が高い華焔の旦那候補はいくらでもいる。

だが明治政府関係者を排除しては、金はあっても身分ある者が一気に減ってしまうのだ。
金と身分がある人物に身請けされれば先行きも明るいというのに。相手が大物である程、楼主に支払われる金にも多くの色が付く。楼主は溜め息を吐いた。

「しっかり稼ぎは上げているだろう、文句は言わせないよ!客を選ぶ権利を忘れないでおくれ!もともと並みの金額で身請けされる気はないからね!」

「華焔!!」

「私は客の身分なんて気にしないよ。明治政府に関係が無ければそれでいいのさ、商人だろうが武人だろうが関係ないね」

「花の命は決して長くない、売れている内に上り詰めろ、声が掛かる内に素直に身請けに応じるがいい!分かったか!」

フンと顔を背ける華焔に対し、楼主は大きな大きな溜め息を吐き、座敷をあとにした。

「姐さぁん、いいんですかぁい・・・」

「いいんだよ、明治政府の犬に誇りは渡さない、それこそ死んだほうがマシさ!」

これまでと変わらず明治政府に関わる者を受け入れる遊女がほとんどだったが、華焔は己の誇りを選んだ。
その選択が、やがて自身の運命の歯車に大きく関わってくることをまだ知らない。
 
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