斎藤一明治夢物語 妻奉公

□40.相楽左之助
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時が訪れた、その朝の態度はあっさりしたものだった。

「それじゃあ、行ってくる」

「はい」

いつも通り、斎藤が制服の上着を羽織るのを見て夢主が制帽を渡す。
斎藤が数回揺らすようにして帽子を深くかぶるさまを夢主は黙って見つめた。

心地よい暖かな朝、反して夢主の顔は泣きだしそうに歪んでいる。
何か言葉を掛けたいが、どんな言葉を選んでも泣いてしまいそうな自分がいる。

・・・一体どんな言葉で送り出せば・・・

引きとめず、困らせないように。
考えるうち、支度が整った斎藤の顔が近づいて来た。
すっかり出立の習慣となった触れるだけの口吸い。

少し離れて、名残惜しそうにもう一度短く唇が触れた。
斎藤も何か言葉を残したいが、声を発せないのかもしれない。
体も離すと斎藤は背を伸ばし、目礼するよう小さく頷いた。夢主も口を閉ざして笑顔で頷きたいが、出来ずに口を開いてしまった。

「あの、一さん」

出て行こうとした体が止まる。

「一さんなら、大丈夫ですからっ、あの・・・大丈夫です」

「あぁ」

心配で黙って見送ることが出来なかった、その姿に締まっていた斎藤の口元が緩んだ。
夢主の一度開いた口は閉まりそうにない。

「一さんは不死身です、今でも、不死身ですから・・・」

「あぁ」

「一さん・・・戻ってください、必ず・・・絶対に・・・」

「あぁ」

もう一度だ・・・斎藤は小さな頭に手を置いて顔を近づけた。
それ以上何も言わなくていい、声を出せないよう口を塞いだ。

「必ず戻る。待っていろ」

「・・・はぃ・・・」

扉を開いて出ていく夫。
伸ばしたくなる手を思い留めると、体まで動けなるようだ。
斎藤は自ら戸を閉め、外の踏み石で足音をカツカツ鳴らして去っていく。土の通りに出て消える足音。

・・・行ってしまう・・・行かなきゃいけない、一さんは行かなくちゃ・・・

飛び出したい衝動を抑えようと力いっぱい拳を握った。
絶対に泣かない。このまま完全に姿が見えなくなるまで、外には出ない。
何度も目を瞬かせ、必死に言い聞かせた。

「あっ・・・・・・言ってない・・・」

見送りで掛ける当たり前の言葉を言いそびれている。
さよならではない、帰ってきてもらう為に送り出す、その証を伝えたい。
気付いた夢主は自分への戒めを解き、外へ飛び出した。

「一さぁあん!行ってらっしゃぁあああい!!!」

朝の通り、行き過ぎる人々が驚いて振り返る。
ただただ驚く者、初々しい若夫婦かと笑う者、そんな人々の先で斎藤がゆっくり振り返った。

怒られるかな、呆れられちゃったかな・・・
そんな心配を吹き飛ばしてくれる、いつもの顔が振り向いた。

「あぁ。行ってくる」

既に道を進んだ斎藤の声は夢主に届かないだろうが、そう言って小さく手を上げた。
片手でお参りでもするような小さな挙手だが、夢主は笑顔で手を振り返した。

「大丈夫そうだな」

何かを弾くように手を振って、斎藤は再び歩き出した。
あんな変わり者で突拍子もなく面白い女は、俺以外では手に余って仕方がないだろう。

「必ず戻るさ」

背中に届く夢主の視線がくすぐったいが、振り向くことなく斎藤は歩みを進めた。
 
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