斎藤一明治夢物語 妻奉公

□46.お願い
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夢主は待ち人の訪れを期待しながら赤べこで働き、ひと月が過ぎていた。
その日は突然訪れた。
勢いよく開いた戸から元気に満ちた薫の顔が見えたのだ。

「薫さん!」

「お久しぶりです、夢主さん、妙さん」

洗い場から飛び出して妙と共に出迎えると、薫は「えへへっ」と恥ずかしそうに笑った。

「先日は恥ずかしい姿を見せちゃいました。ごめんなさい、もう大丈夫ですから」

「いらっしゃい!姿が見えないから心配してたのよ、ささ、座って座って!」

「心配かけちゃいましたよね、ずっと申し訳ないって思ってたんです。子供みたいに拗ねて・・・今は本当に元気になりましたから。そりゃあ父がいないのは寂しいですけど、受け入れて前に進むしかないんです」

「薫ちゃん・・・強くなって・・・」

妙が感極まり浮かんできた涙を拭っていると、奥の客から声が掛かった。
昼からの酒盛りで食事の中盤、酒のお代わりだろう。

「私行ってきます、妙さん涙を拭いてください」

自分も人のことは言えないがと、目尻を拭って夢主は客の元へ急いだ。
店の仕事は洗い場から客の対応まで一通り覚えた。咄嗟に妙の力になれるのが嬉しい。

「ふふっ、妙さん泣かないでくださいよ」

慰められてばかりいた薫が、自分の為に涙を浮かべる妙を励ましている。
涙を拭う妙の向こうには客の話を聞く夢主が見えた。

「それに今はお世話してくれる奉公人がいるんです」

「奉公人」

「はい。元々うちは余裕がある家ではありませんが、それでも幾人かの食客がいました。父がいなくなって出て行っちゃったけど・・・。行き倒れのご老人を介抱したら、今はその人が家の事を引き受けてくれているの。おかげで私は剣術に専念できるし、心に余裕もできたわ」

「それは良かったわぁ、今度その方も一緒に連れておいで、奉仕させてもらうから」

「はい、ありがとうございます」

すっかり生きる気力を取り戻したようだ。
力が満ちた言葉、会話の間も薫は笑顔を絶やさなかった。
夢主は客の注文を受けて追加の酒を運び、今度は薫の注文を聞きに戻って来た。

「薫さん、今度道場へ遊びに行ってもいいですか」

「もちろんです!」

厨房へ戻り調理場へ注文を伝える。
一息ついて振り返ると笑顔で妙と話す薫が見えた。もう大丈夫そうだ。
いつ道場を訪れようか。皿が溜まった洗い場へ入り、うきうきと手を動かしながら大事な事を思い出した。

『神谷には近づくな』

斎藤からの忠告、夢主にとっては夫の願いだった。

「そっか・・・行けないんだ・・・」

でも赤べこで時間を共有するくらい許されるだろう。
夢主は薫が食事を終えた後、休憩を貰って茶豆を一緒に楽しんだ。
女同士の他愛のない話、周りに花を振りまく笑い声が響いた。
 
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