斎藤一明治夢物語 妻奉公

□60.帽子支度
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家に帰ると玄関の物掛けに制帽を掛けるのが斎藤の日課だった。
ほとんど帰らなくなった今、日課と言えるのかは分からない。

目深にかぶる支給品の帽子は煩わしく、飛び回る仕事が増えるとほどなく家に置きっ放しになった。
久しぶりのわが家へ戻った斎藤は、制帽が掛かっているはずの物掛けが空いているのを見つけた。

「おかえりなさい、一さん。今夜はお家ですか」

「いや、ちょっと忘れ物を取りに来ただけだ。すぐに出る」

面倒な制帽だが、身に付けざるを得ないのならば別に厭わない。
適当な物を借りても良かったが、理由をつけて帰宅する折角の機会だ。
取りに戻ったのは正解だった。嬉しそうに顔を出す夢主に斎藤も一時の帰宅を喜んでいた。

「忘れ物・・・ですか。ふふっ、もう暫く帰ってないのに忘れ物なんて」

「帽子だよ、制服のな。どこだ」

「ありますよ、暗い玄関に置きっぱなしだと湿気で傷んじゃうと思ったんです。持ってきますね」

頼んだと声にするより早く、夢主は笑顔で会釈をして家の中に急ぎ消えていく。
相変わらずの姿だ。
斎藤が顔を緩ませていると、夢主はすぐに戻ってきた。

「お待たせしました、どうぞ」

「全く待っちゃいないがな、お前こそ待ってばかり・・・か。悪いな」

「いいえ」

落ち着き払った様子で愛嬌たっぷりに首を傾げる笑顔。
待たせてばかりだが、塞いでいないのは心強い。安心して家を任せられる。任せてばかりで申し訳なさは感じるが。
斎藤は黙って帽子を受け取った。

「帽子、邪魔だから要らないのかと思ってました」

「いつもはな。今日は警官として人に会わねばならんのだ」

そう、人斬りを探す政治家に取り入る為に手を回し、今宵一席設けられている。
政治家に直接会う前の面談だ。上手くいけば裏で糸を引く政治家との一席に繋がる。
料亭に向かう前に済ませなければならない仕事もあり、我が家に長居は出来ないが。

「お前が元気そうで良かった」

そう言って帽子をかぶろうとした斎藤の手が夢主の言葉ではたと止まった。

「先日神谷道場でみなさんから元気を貰ったんです。正直、苦しいこともあります。でも楽しいこともあるし、辛いのは私だけじゃ・・・一さっ」

「神谷道場には近づくなと言った覚えがあるんだが」

穏やかに緩んでいた夫の顔から表情が消えていた。
咎める視線が夢主に向く。

「あの、直接誘いに来てくれて・・・気晴らしにいいかなって」

「気晴らしか、確かにそうだな」

斎藤がかぶりかけた帽子を不意に物掛けに掛けた。
制帽が定位置に戻り、長らく見ていなかった景色が目に入る。意味もなく落ち着くのは不思議だ。
横目に物掛けを見ていた斎藤が強く夢主を見下ろした。

「だがこれから暫くは近付くな。いいな」

「神谷道場に・・・行かれるのですか」

「いや、行きはしない」

今は、まだ。
斎藤は心で呟いた。

「内務省が爆破された」

「っ」

「知っていたか。政府が緘口令を敷いたんだがな」

僅かな反応から夢主が内情を知ると見抜いた斎藤、ニッと笑んで体を寄せた。
面白い反応だ。個人的には構わないが、厄介事は困る。
神谷道場へ近寄らせない為、少々きつめの警告が必要か。

「犯人を知っているんじゃないのか」

冗談半分、顎に指を掛けクイと持ち上げる。
尋問だぞと悪戯に視線をぶつけるが、夢主にはあまり通じていないようだ。戸惑い驚いて眉根を下げてしまった。
手を離すと夢主は反動のまま俯いてしまった。
 
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