斎藤一京都夢物語 妾奉公

□97.別れの万寿
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夢主はそれから水汲みが日課となった。
沢まではさほど離れておらず、一人で出向く。
時々気に掛けてくれるのか、川で水を汲んで景色を眺めて休んでいると、比古が不意に姿を現すことがある。
そんな時、比古は夢主の無事を確認し「うむ」と合図を送るように頷いて去って行った。

この日、夢主は水を汲んだ後、小屋に水桶を置いて比古の鍛錬を覗きに行った。
鍛練を見るのは珍しくない。比古が満足するまで動いた後、護身術も教えてもらう日が多く、夢主は遠慮せずに滝へ向かった。

山の木々は少しずつ色を変え始めている。
水辺から吹く風は既に冷たいものに変わっていた。
空は何やら薄黒い雲が広がり、辺りが仄暗くなっていく。

「比古師匠っ」

「来たか」

崖の上で比古を探していると、夢主の前に比古が戻ってきた。

「今日も覗きに来ちゃいました。今日は少し寒いですね、風が冷たいです」

「そうだな、一雨来るかもしれん」

比古につられて空を見上げると、黒い雲がさらに広がっていた。
空の色の変化を確認する間にも雨雲は急速に大きくなっていく。

「いかん、来るぞ」

歩き出すや否や、突然の雷雨に見舞われた。

「夏の終わりか、嵐だな。通り雨なら良いが」

二人は突然の雨に打たれ、大木の下に逃げ込んだ。広く張った枝と分厚く重なる葉で一先ず雨は凌げる。
夢主は激しい雨音に肩を縮めて、雨を除けてくれる大木を見上げた。

視線を上げると森が揺れて見える。
上にいくほど風は強いのか、木々の枝が大きく振れて、森全体が動いている錯覚に陥る。
しかし視線を戻せば、身を叩く雨粒を物ともせず、木々は悠然としていた。

比古を見ると、髪からぽたりぽたりと雫が垂れている。

「どうした」

比古が夢主の様子を確認すると不思議な表情で自らを見上げている。
何か気になるのか問うと、夢主は表情を和らげた。

「いえっ・・・比古師匠って、大きいんですね。とっても・・・」

「どうした、今更」

大木のようにどっしりと佇む男。
力強くて逞しい存在。
今も突然の雷雨から身を挺して守ってくれた。

「いいえ、雨が降り出してから比古師匠が外套を私に被せて下さったので・・・私はそれほど雨に打たれませんでした」

「まぁ降り始めの雨に髪は濡れてしまったがな」

「でも、比古師匠のおかげです・・・」

比古の体はすっかり濡れている。突然の雨量が凄まじく、一瞬だった。
比べて夢主の体は比古に守られ、さほど濡れていない。髪の表面に水滴が滲む程度だ。

「ありがとうございます」

「いいさ、当然だ。俺は体も強い。お前に風邪を引かせる訳にはいかないからな」

ふふんと得意気な顏に申し訳なさが薄れる。
与えられるのは安心感。夢主は素直に頭を下げた。

「比古師匠が傍にいて下さると、とっても心強いです。山の雨は少し怖いです、全部流されてしまいそうで・・・」

そう話す間にも高い方から低い方へ、足元の木の根の向こうでも絶えず雨水が流れて行く。
崖でも滝つぼへ向かい、新しい滝が出来たように幾つもの落水の筋が出来ていた。

「でも、師匠が一緒なら・・・平気かな」

「ふん、そうか。洪水が起きようが崖が崩れようが守ってみせるさ、それくらいは朝飯前だ」

「ふふっ、比古師匠に出来ない事はないって思えてきます」

「そうだろう」

「はいっ。・・・師匠・・・」

雨に濡れ、比古の顔に掛かる前髪から絶えず雫が滴っている。
邪魔そうな髪束を除けてあげようと思う夢主だが、手が届かないと首を傾げた。

「どうした」

「髪・・・」

夢主が手を伸ばすので比古が顔を寄せると、思いがけず前髪を除けられた。
額に指先が触れただけで、比古は周りの雨音を忘れるほど驚いた。
反射的に鋭い視線に捉われ、夢主はびくりと手を引いた。

「ごめんなさい、前髪から雫が・・・邪魔かと思ってつい・・・」

「いや、構わん。すまんな」

夢主がここに来てから肌に触れたのは初めてでは・・・
我にもなく、比古は夢主の伸びた手を掴みそうになった。

「師匠・・・」

「いや、何でもない。雨が弱まったら小屋に戻るぞ。暫く続きそうな雨だ」

再び空を見上げた比古越しに、夢主は空を見上げて「はい・・・」と返事をした。
 
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