はじまりのロク

□存在の発信
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 瓦版屋くんの自宅は学校から電車で15分とバスで30分乗り継いだ先にある住宅街にひっそりと佇んでいた。
 「人、いませんね」
 バス停から5分ほど歩いてきたけれど誰にも出会わなかった。家はあるが人はいない。どうやらこの辺一帯にある家はほとんどが空き家のようだった。
 「本当に会うのか?」
 玄関のインターホンを押す寸前に相澤先生が振り返る。
 「もちろんです」
 相澤先生が私のことを気遣ってくれていることはわかっていた。家にいるはずのない瓦版屋くんに会うのは気まずい。でも、そんなことを気にしている場合ではないことは確かだ。
 どうして瓦版屋くんは私に嘘をついたのだろうか。私の悩みを親身になって聞いてくれた優しい瓦版屋くんが嘘をつくなんて信じられなかった。しかし、それが事実である以上、理由があるに違いない。
 「…………」
 昨日、彼が登校拒否になっていることを聞いてから断続的にあの何か辛いことを抱え込んでいるような影の落ちた表情が脳裏に浮かんで仕方がなかった。あの時、本当は私が彼の悩みを聞くはずだった。しかし、私は彼の優しさに甘えてしまった。
 「次こそは僕の話を聞いてね」そう言っていたのに、私は自分のことで精一杯で結局なにも返さずここまで来てしまった。
 「………私…嫌われた…?」
 今ここで初めて気が付いた自分に心底嫌気がさした。そもそもどうしてそういう思考がなかったのか。嫌われて当然ではないか。自分の悩みをぶつけるだけぶつけて、おしまい。そんなあつかましいことをされて嫌いにならない方がおかしい。
 「や、やっぱりやめ…」
 ピンポーン。
 「!」
 すっかり会うのが怖くなって、来た道を戻ろうとすれば躊躇っていたはずの相澤先生が容赦なくインターホンを押した。
 「もちろん、会うんだろ?」
 先生は笑っているが私は酷く説教された時のように縮み上がっていた。
 直後、家の中から階段を降りてくるような音がして玄関の扉が控えめに開けられる。覗きみるように顔を出したのは言うまでもなく瓦版屋くんその人だった。
 「…………壽さん……」
 彼に私が来ることは伝えていない。都合が悪い担任の代人として相澤先生が様子を見に来るとだけ連絡をしていた。
 「こ、こんにちは」
 「…………どうぞ」
 しばらく私を驚愕の眼差しで見ていた瓦版屋くんは仕方ないという風に私たちを中へ入れてくれた。
 玄関で靴を脱いでいると、瓦版屋くんは私たちを一瞥してすぐ左にある部屋へ入っていった。
 「瓦版屋くん…」
 学校の彼とはまるで別人だ。
 目じりを下げて優しさを溢れさせ笑う彼も、私の気持ちに寄り添うように真剣に相談に乗ってくれた彼も、可愛らしい顔文字でメールを作る彼も、ここにはいなかった。
 しばらく玄関先で待っていると表情のない瓦版屋くんが先の部屋から出てきて「どうぞ」と誘導してくれる。
 通された部屋はちゃぶ台とテレビが置かれてあるだけの質素なものだった。私たちはちゃぶ台を囲むようにして敷かれた座布団の上に腰を下ろす。そうすれば開いた襖の向こうの部屋で瓦版屋くんがお茶を淹れ始めた。台所と繋がっているところから、この部屋は普段家族が集まるところなのだと想像する。
 「親御さんは?仕事か?」
 お茶を淹れる音だけがするこの家に私たち以外の人気はなかった。
 「共働きなんです」
 「日曜日もか」
 「はい」
 暗い台所から聞こえる声は沈んでいて、その部屋の影に溶け込むようだ。緑茶の青い香りが唯一、部屋の空気に飲み込まれていなかった。
 そこでふと思うことがあった私は努めて明るい声音で瓦版屋くんに話しかける。
 「妹さんは?靴がなかったけど、どこか遊びに行ってるの?」
 二人分のお茶をおぼんに乗せて戻ってきた瓦版屋くんは旅館の従業員のように美しく腰を下ろした。まず相澤先生の前に湯呑を置き、続いて私の前へ。おぼんを床におろし、自身は畳の上に正座した。
 薄く笑んだ彼と正面から目が合う。
 「真奈はいつも公園で遊んでるんだ」
 この時、私は初めて妹さんの名前を知った。
 「真奈ちゃん、お友達と一緒に遊んでるの?」
 「そうだよ。向こうの母親が見てくれてる」
 「そうなんだ……それなら安心だね」
 「…………」
 本当に私は今、瓦版屋くんと話しているのだろうか。目の前にいるこの人は瓦版屋四朗くんなのだろうか。
 目の下にはくまが出来、口は最低限にしか開かない。常に穏やかな笑みを絶やさなかった彼は殺されてしまったかのようにさえ思えた。
 それ以上会話を続ける勇気がなくて重い沈黙が訪れる。
 「瓦版屋」
 ぶっきらぼうだけれど落ち着いた声音が重苦しい空気に浸透した。
 「すぐにとは言わないが早めに復学しろ。それが今のお前に必要なことだ」
 相澤先生の言葉に瓦版屋くんが反応することはなかった。それを見た先生は何故か私の頭をくしゃりと撫でる。
 「友達も待ってるからな」
 「!」
 驚いて相澤先生を見上げると当人は真っ直ぐに瓦版屋くんを見つめていた。
 一方、瓦版屋くんは俯いているせいで表情は窺えない。
 「水曜になっても登校しなかったらまた担任が様子見にくるから」
 そう言って「それじゃ」とおもむろに立ち上がる相澤先生。そのまま部屋を出て行こうとする。
 「何してんだ、行くぞ」
 「………えっ?」
 まさかの面談終了のようだ。
 まだお邪魔して10分も経っていないけど。
 しかし、相澤先生は「はよ来い」と言わんばかりに眉間に皺を寄せて私を睨んでくる。
 私は戸惑いながらも腰を浮かせて最後に一言声をかけた。
 「か、瓦版屋くん、またいつでもメールしてね。どんなことでもいいから、絶対メールしてね」
 返答はなかった。
 ただ、彼の隣を通り過ぎるとき、硬く握られて真っ白になっている手が膝の上に乗せられているのが印象に残った。

 寮に帰ると普段はテレビを見にリビングへ向かうのだけれど、今日はそんな気分にはなれずに食卓の椅子に座ってぼうっとしていた。
 以前この部屋にもテレビを置くか相澤先生と悩んでいたのだけれど、結局置かないことに決めた。今時ニュースはスマホで見ることができるし、そもそもリビングに大きなテレビが一台あるんだから十分だろうという理由だ。表向きは。口には出さないけれど、私は静かなこの部屋が好きだった。ごはんを作る音と食器を片付ける音、お腹をすかせる匂いと二人だけの人間の声。私たちの生活がこの部屋にはある。それを上辺だけしか知らないテレビに邪魔されたくなかった。そして、きっと相澤先生も私と同じことを思っている、となんとなしに思うのだ。
 「コーヒー飲むか?」
 スーツから部屋着に着替えてきた相澤先生がポットに水を淹れながら言う。
 「お前も着替えてこいよ」
 私は重い腰を上げて先生にコーヒーをお願いすると、すでに降りている屋根裏部屋の階段を上った。
 制服を脱ぐ前にベッドの上へ投げっぱなしにしていたスマホを手に取る。画面をつければ期待していた通知はなかった。
 瓦版屋くんとは昨日の電話を最後に連絡をとっていない。私からメールしようかとは思った。でも、何と送ったらいいのかわからなかった。今更「あの時、何を話そうとしていたの?」と送るのはアウトだろうか。セーフ?時効?
 連絡帳から瓦版屋くんのアドレスを呼び出しメール作成画面を開く。
 「、……」
 相澤先生が呼びに来るまで私の指が画面に触れることはなかった。
 「真奈ちゃんが……亡くなってる…?」
 再び食卓に戻り甘い香りを漂わせるコーヒーが置かれた席についたときだ。相澤先生の口から思いもよらぬ話を聞いた。
 「瓦版屋が小5の時だったらしい。母親と一緒に交通事故にあったそうだ」
 「で、でも、瓦版屋くんはいつも真奈ちゃんにお弁当を…」
 手の込んだキャラ弁を毎日作っていると言っていた。お気に入りのキャラクターのシャンプーでないと髪を洗ってくれないと、そう言っていた。
 相澤先生は苦そうにコーヒーを飲む。
 「まだ受け入れることができてないってわけか」
 「…………そんな…」
 嘘であってほしい。けれど、嘘ではない。
 私は居ても立っても居られず立ち上がると屋根裏部屋へ続く階段を駆け上がった。
 ベッドの上にあるスマホを引っ掴んで瓦版屋くんの電話番号をタップする。コール音が響いた。暫くして無機質な女性のアナウンスがかかる。もう一度かけなおした。出ない。何度かけ直しても瓦版屋くんが電話に出てくれることはなかった。
 私は転げそうになりながら階段を下り、そのまま玄関に滑り込む。
 さすれば相澤先生の低い声が背後に聞こえた。
 「どこ行く気だ」
 「瓦版屋くんの家です」
 「やめとけ」
 「どうしてですか…?!」
 溜め息をつく相澤先生に構わずスニーカーに足を突っ込んだ。そして立ち上がった瞬間、腹部に圧迫感を覚える。
 「お前が行っても無駄だ」
 私の胴体に絡みついて動きを止めているのは相澤先生が普段首に巻いている捕縛武器だった。
 「行かせてください!私、瓦版屋くんに何もしてあげてないんです!貰ってばかりで、何も…!」
 「行ったところで会ってくれないと思うけどな」
 「!」
 心臓を強く掴まれたようなショックを覚えた。
 そうだ、私は今嫌われているのだ。
 「……でも、それでも、お返しを」
 「まあ聞け、壽」
 ぐるん、と勢いよく回転させられて捕縛武器が張られた先に相澤先生を見る。
 「普段のアイツを知らないから何とも言えんが、お前の反応を見る限り今の瓦版屋はいつもと違うみたいだな」
 上手く答えることができず、視線をそらした。
 相澤先生はその間もじっと私を見ている。
 「瓦版屋の父親が最近再婚したらしい」
 「え…」
 「それを機に現実を受け止める気になってるんじゃないか?」
 真奈ちゃんとお母さんが亡くなって5年。止まっていた時が環境の変化に刺激されてようやく動きだしたのだろうか。
 「兎にも角にも、いまアイツには時間が必要だ。一人で考える時間がな」
 「………はい」
 「学校で会ったらいつも通り接してやってくれ」
 体に巻き付いていた捕縛武器が緊張を緩めて相澤先生の元へ帰っていく。
 「昼飯、まだだったよな。何食べる?」
 何もできないことがとてももどかしかった。
 けれど、それは自分の都合だ。私が悩みを聞いてあげたくても、一緒に解決してあげたくても、瓦版屋くんはそれを求めていない。私はまた自分を押し付けるだけをしようとしていた。
 「……昨日、やきそば買いましたよね」
 「そういやそうだな」
 相澤先生はどうしてそんなに生徒のことがわかるんだろう。
 まだ若いのに、今まで見てきたどの先生よりも生徒のことを見てくれていると思った。
 「私が作るので相澤先生は座っててください」
 「いや、俺も作る。その方が合理的だ」
 「ふふ、お得意の合理的主義ですね」
 「何が悪い」
 「悪いとは言ってません」
 「………」
 私もいつか人を心から救けることができるようになるだろうか。
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