はじまりのロク

□幕間
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 「ハックション!」
 ギシ、と丸椅子がくしゃみの衝撃で小さく悲鳴を上げた。
 「あれま、古典的なくしゃみだこと」
 書類に記入をしていたリカバリーガールがくるりと椅子を回転させておかしそうに笑った。
 「すみません…なんだか鼻がむずむずして」
 月に一度の精神診断を行うため、昼休憩に保健室へ訪れていた私は今朝からどうも調子が悪かった。
 「花粉症かい?」
 「そうなのかもしれません」
 ティッシュもらいます、と一言断って机上の箱から数枚ティッシュを引き抜き、鼻をかむ。
 水のごとく流れ出てくる鼻水は、かんでもかんでも途切れることがなく切りがなかった。
 まさか自分が花粉症に苦しむようなことになろうとは。そう思うくらいには毎年この時期は穏やかな気候と共に平穏に暮らしていた。
 それが今年はどうだ。鼻水は止まらず、くしゃみが出そうで出ない、を繰り返している。
 聞けば、今年は過去最悪の量の花粉が飛んでいるらしい。テレビにはスギが風に任せて花粉を大盤振る舞いに振りまいている景色が映し出されていた。あの光景を見せられてしまえば「そりゃ花粉症になるわ」とさえ思ってしまう。
 「念のために熱、測っとくかい?」
 「いえ、大丈夫です」
 確かに少しぼうっとするが、それはマスクのせいで酸素の供給が普段より遅れているせいだろう。
 「もし体調が優れなかったらすぐに来なさいね」
 書類にハンコを押し「お疲れさん」とハリボーをくれたリカバリーガールに礼を言って、相澤先生が待つ職員室へ向かった。


 「お疲れ」
 異常なしの判定を貰った精神診断の書類をデスクに向かって仕事をしていた相澤先生に差し出すと、普段より充血した瞳が私を見上げた。
 花粉はデリケートな相澤先生の目にも遠慮なく攻撃しているらしい。
 「次は運動場での訓練か」
 憂鬱だ、と言わんばかりにフーッと息をついて上を向くと目薬を点眼する。
 「もう少しで終わるからちょっとそこで待っててくれ」
 隣のデスクの椅子を引っ張りだしてきて私に座るよう促した相澤先生は、再びパソコンと睨み合いを初めてキーボードを叩き始めた。
 私はマイク先生の椅子に座ってその姿をただただ眺める。
 いつもより充血したその目は左から右に流れていく。目元にうっすらと目薬が残っているのが充血した白目と合わさって泣いた後のようになっていた。
 「相澤先生って、泣いたことありますか?」
 「ない」
 「ええ、ウソ」
 嫌そうな顔が向けられる。
 「…3徹明けの時は流石に涙が出た」
 「それって疲労で目が沁みて涙が出たって意味ですよね…」
 パチパチとキーを打ちながら「うん」と言う相澤先生。まあ、なんとなくそうだろうなとは思っていたけれど、相澤先生も小さいころは転んで泣いたりしたのかなと可愛い小話を期待していたのだ。
 急に鼻がむずむずしてきて、極力おさえてくしゃみをすると、「大丈夫か」と心配してくれた。
 「顔が赤いな」
 作業の手を止めて改めて私の顔を覗き込んだ相澤先生の手のひらが額に当てられる。ちょっと冷たい。
 「熱あるんじゃないか?」
 「マスクのせいだと思います」
 体温が正常か確かめるように頬に降りてきた先生の手がひんやりとしていて気持ちいい。熱をとってもらうように顔押し付けると、親指がマスクの紐と一緒に頬を撫でて離れていった。
 「訓練できそうか?」
 心なしか普段より優しい声が聞こえて、いつの間にか閉じていた目を開けると正面を向いた相澤先生と目が合った。
 これは、心配させてしまっているようだ。
 「大丈夫です。ただの花粉症ですから」
 鼻声でそう言えば、「そうか」と少し沈黙する。
 「無理はするな」
 「はい」
 食堂から帰って来たマイク先生が早速話しかけて来て花粉症に同情してくれた。
 マイク先生は花粉症とは無縁の体らしく、今日も元気に叫んでは相澤先生に睨まれていた。
 「のど飴いるか?」と常に携帯しているらしいのど飴を私の手のひらに一粒転がしてくれる。流石ボイスヒーロー、喉のケアは徹底しているらしい。ハチミツレモン味のような可愛い色をした飴ではなく、藍色のような、灰色のような、とにかくコンビニで買えるような気休めののど飴ではない、その仕事柄専用のものであることがわかる飴である辺りがプロであることを実感させれられる。
 マイク先生に喉のケア方法を教わっている内に相澤先生の資料作成が終わり、私たちは運動場へ移動した。


 運動場γは工業地帯がモチーフになっており、建物が密集しそこら中にパイプが通っている。
 「壽の場合、個性が使えても敵に拘束されてしまえば一環の終わりだ。そのため、今後は基礎体力作り、機動力アップ、基本的な身のこなし…まあ護身術と思ってくれればいい、を学んでもらう」
 ここで学ぶのは、身のこなしと機動力だ。高いところから飛び降りた時いかに衝撃を和らげて無事に着地するか、細いパイプの上をどれだけ速く走り抜けれるか、死角が多いこの場所でいち早く敵の攻撃に気が付き護身できるか。
 「よろしくお願いします…!」
 体力はそのうちついてくる。
 まずは、不敵に笑う相澤先生からの攻撃を避けることに集中しよう。

 「これくらいにしとくか」
 捕縛武器を首に巻きなおして何とでもなく言う相澤先生の前に私は座り込んでいた。呼吸がなかなか整わない。
 次から次へと繰り出される攻撃を右へ左へ避け続け、飽きたと言わんばかりに上から下から飛んでくる捕縛武器を転んで躱し、細い路地を逃げ回りパイプの上を走ってみたり落ちたりぶら下がったり、挙句の果てには相澤先生に手を差しのべられたり…散々な訓練だった。
 「まあ初めてにしてはこんなもんか」
 もう全身すり傷とホコリだらけだ。しかし、相澤先生は赤ちゃんをあやしているような感覚だったように思う。つまり、私はまだヒーローを目指す雄英の生徒としての最低ラインにも達していないということだ。
 「はあ…はあ…ッ」
 壁に寄りかかりながらなんとか立ち上がれば、ぐわんと視界が歪んで再び尻餅をついた。
 「おい、大丈夫か」
 相澤先生が心配して駆け寄ってくれる。
 訓練はまだ最初の段階だというのに、こんなになってしまうのは褒められたことではない。今の私にはとにかく体力強化が必要だ。
 「う…」
 ガンガンと強く金づちで叩きつけられているかのような頭痛がする。頭が割れるようだ。
 「壽」
 相澤先生の声が曇って聞こえる。耳に膜が張られているみたいで違和感がぬぐえない。
 なんだか息が吸い込みにくい。苦しい。
 「壽!」
 珍しく焦った顔の相澤先生が私を覗き込んでいた。その顔さえもくしゃくしゃのラップをかけたようにぼやけて見える。
 肩に感じる先生の手が冷たくて気持ちがいい。耳元にすぐ鼓動の音が聞こえる。それはちょっとだけ速く動いているような気がした。
 ナイロン質の黒い服に顔を押し付け、歯を食いしばって遠くを見ている先生の顔を見上げれば、瞼が重くなってそのまま誘われるように意識を手放した。
 
 
 「……………」
 いつの間にか眠っていたらしい。
 目を開ければ嗅ぎ慣れた保健室の匂いがした。
 「大丈夫かい?」
 続いて心配そうなリカバリーガールの顔が覗く。
 「リカバリーガール……」
 「ったく…無理をさせるなと言っただろ」
 そう怒るリカバリーガールの視線は私ではなく、向かいにいるらしい誰かに注がれていた。
 重い頭を動かして反対側を見れば、思いつめたような顔をした相澤先生が私を見下ろしていた。
 「今日は早退させな。風邪は私の個性じゃどうにもできんからね」
 口にペッツをねじ込まれ、背中を押されて上半身を起こす。
 ジュワリと溶けたペッツは甘酸っぱくて美味しい。
 「歩けるかい?」
 「……はい」
 ぼーっとする。
 これはもうリカバリーガールの言う通り、風邪だ。花粉症が悪化したのか、気温の変動が激しいこの時期に負けてただ単に風邪をひいたのかわからないが、兎にも角にも今はすごく体調が悪い。
 力の入らない体をなんとか動かしてベッドの端に移動し、両足を床に下ろしたが立つことが出来ない。
 「…………」
 なんとなく、訓練の失態が今の無力の状態と重なってちょっと泣きそうになった。
 「乗れ」
 「…………?」
 大きな背中が目の前にある。もしかしなくても背負ってくれるのだろうか。
 先生に迷惑をかけてしまって申し訳ないなぁ。
 そう思いはするも、倒れ込むようにその背中に抱き着いた。
 「あれま、この子も素直に甘えるんだねぇ」
 「…今は遠慮する余裕もないんでしょう」
 相澤先生の背中は安心した。
 すぐに睡魔がやってきて、先生の体を通して聞こえる声が夢の中へと誘っていった。



***相澤side


「ちょっとここで待ってろ」
 寮に戻って一先ずリビングのソファに壽を座らせて冷蔵庫から水を取り、寝室である屋根裏部屋への階段を下ろす。
 壽は深く眠っているようで起きる気配はなかった。
 ペットボトルを口にくわえ、壽を抱き上げてかいだんをあがる。
 最初はモノクロの寝室だったが、白いベッドある方は棚や小物が設置され、女子らしい部屋になっていた。もちろん俺の方は当初のまま黒一色のベッドが置いてあるだけだ。
 黒猫のぬいぐるみを端に寄せて壽をベッドの中心に寝かせると、寝苦しそうに体を丸めた。
 熱のせいで顔は赤いが、訓練の時のように苦しそうにしてはいない。リカバリーガールがそれなりの処置をしてくれたおかげだろう。
 「…………」
 壽が倒れるのを見た時は肝が冷えた。
 もう見たくないと思っていた光景だった。
 こうして壽の寝息を聞いていると安心する。目の前にに壽がいるということが何よりの心の安定だった。
 壽が視界にいない時は、それが授業中であってもどこか心がざわついていた。
 今この瞬間に敵の襲撃があったら、と想像せずにはいられない。
 5回、同じ時間、同じ場所、同じ敵から壽を護ることができなかった自分を思い出す。
 こうして触れることができる間だけ、全てを忘れることができた。
 「……………」
 「…………なんで起きてんだ」
 「いやだって…そんなに頭を撫でられたら誰でも起きると思います」
 「水飲むか」
 「……飲みます」
 マイクだったら今の俺を飲みにいく度に酒のネタにするだろうな。
 俺が壽を背負って帰ろうとしているだけでクソうるさかったし。
 「相澤先生って風邪ひいたことありますか?」
 「……寝ろ」
 「なんだか寝すぎちゃったみたいで、寝れないんです。なのでちょっとお話してくれないかなと思って」
 さっきの質問をそのままくり返す壽はすっかり元気になったみたいだが、顔の赤みはまだ引いていないし声もくもっている。
 「あ、もしかしてこれから学校に戻りますか?そうだったら引き留めちゃってすみません。私は大丈夫なので行ってください」
 気を遣えるくらいには回復したらしい。一先ずは安心できそうだ。
 「パートナー置いて行くわけないだろ。規約違反だ」
 「今更言いますか……そうだ、相澤先生に背負ってもらった時すごく安心して眠れたんです。お話が嫌なら添い寝してくれませんか?」
 「は?」
 「嫌ならいいです」
 風邪をひくと頭の回転が鈍るのはわかるが、ここまで働かなくなるもんなのか。
 言ったことを後悔するでもなく本気で落ち込んだように丸まって必死に眠ろうとしている姿を見れば、そうなんだろうと思わざるを得ない。
 「………添い寝はできんが話はしよう」
 壽がまどろむまで話は続いた。
 いつの間にか日は暮れていて、晩飯の時間になったが、ようやく眠った壽を起こすのは忍びない。
 適当に作って壽の分はラップをかけておいた。目が覚めた時に温めなおして食わせてやろう。
 久々の一人の食卓は物悲しい。壽に会ってからすっかり変わってしまった。日常も、性格も。
 だが、この感情は後悔とは程遠いものだ。
 デザートでも作っておくか。
 ちょうど、牛乳と混ぜればわけのわからん美味いものができる手軽なデザートの材料がある。むしろ病人にはこっちの方が食べやすくていいかもしれない。

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