はじまりのロク
□はじめまして
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いたるところに桜が花を咲かせていて薄桃色の綺麗な花弁を風に乗せて飛んでいる。
並木道がピンクの絨毯になっているのは、この季節だけの幻想的な景色だった。
なんとなく、スーツの襟元を直す。今日は雄英高校に教育実習でお世話になるための事前の打ち合わせで呼び出しがあったので、大学の入学式以来にスーツを着込み、母校へ向かっている最中だ。
思えば、3年近く雄英には行っていない。校長先生が「たまには遊びにおいで」と言ってくれていたけれど、思いのほか大学やバイトで忙しくて顔を見せることができなかったのだ。でも、マイク先生やセメントス先生など、お世話になった先生とはたまに会ってお話をしたりしている。晩ご飯をおごってもらうこともしばしばあった。教え子とはいえ、ここまで目をかけてくれていることが素直に嬉しい。いつか私がご馳走できるよう頑張ろうと思う。
よしっ、と気合を入れて姿勢を正したところで、一人の男性と目が合った。
黒いパーカーに黒のズボン。フードを深く被っているが、赤い瞳が真っ直ぐに私を見据えている。
なんとなく目がそらせなくて見つめ合っていると、男性の方が近づいてきた。なかなか近い距離で立ち止まる。
「アンタ……ロクだよな?」
"ロク"とは、私のヒーローネームだ。
「はい、ロクです」
「やっぱり!俺すっげーファンなんだよ!握手してよ!」
「わ、ありがとう…!」
パッと笑顔を浮かべて差し出してくれた手を嬉しくてたまらない気持ちで握る。
「いま大学で勉強してんだろ?プロヒーローの免許持ってんのに教免とろうなんて欲張りだよな!俺、アンタのそういうところが好きなんだ!」
「そんなことまで知ってるんですか…詳しいんですね」
「そりゃあファンだからな!」
男性は目を三日月のようにして笑みを深めた。
それにしても、プライベートについては、取材ではもちろんファンだと言ってくれる人にもなるべく話さないようにしているのだけど、その情報はどこから仕入れたのだろうか。
相澤先生に、耳にタコができるほど「尾行に気をつけろ」と言われているから敵、一般人問わず、そういう類には気を付けているんだけれど、気づかないうちに監視されているのかもしれない。
「気を付けないと…」
「何に気を付けるんだ?」
「えっ」
無意識に声に出していたらしく、男性が顔を覗き込んできた。
「いえ、なんでもありません」
「ははは、プロヒーローだから悩み事は尽きないよな」
「そ、そうですね…」
思えば、男性は最初に握手を交わしてからというもの、ずっと私の手を握っていた。
なんだか、少しずつ握る力が強くなっている気がする。
「あの、私これから用事があるのでこの辺で失礼しますね」
ずっと手を握ってしまうほど応援してくれる男性には申し訳ないけれど、遅刻するわけにはいかない。
乾燥し、骨ばった両手に包まれた自分の手を引こうとすると、より一層強く握られた。
「なあ、一杯だけ付き合ってくれよ!ずっと追いかけてきて今日やっと会えたんだ!頼む!5分でいいからさ!」
「でも………わ、わかりました。5分だけなら…」
「!」
彼の熱に折れたというより、砕けてしまいそうなほどに強く握られた手を解放してもらうために承諾したというようだった。
「サンキュ!さすが俺たちのロク!」
彼がパッと笑うと同時に解放された手を思わず撫でる。皮膚には、くっきりと彼の手形が残っていた。
「コーヒーでいいよな?知ってるぜ、酒は飲めないんだよな」
「よくご存じで…」
「ファンだから当然だ」
男性は私の肩を抱いて近くの喫茶店に向け歩き出した。
本当は早目に雄英に到着して、ノスタルジックに浸りながら校内を散策しようと思っていたのだけど、応援してくれているファンを蔑ろにするわけにはいかない。
それに5分だけという約束もしたし、それくらいなら遅刻することもないだろう。
「あんた、ほっそいなー!ちゃんと食ってんの?なんならメシも奢るぜ!」
「いえ、コーヒーで十分です」
「だよな、冗談だよ」
かなり密着しているせいで歩きにくい。それに男性は大股で歩くため、小走りで歩いてついていかなければ彼に体重を預けることになりそうで緊張した。
お店の前に来ると、彼は先にドアを開けて私に道を譲ってくれた。
その時に気が付いたのだけれど、彼は何かを握るときに人差し指を使わない。
私の肩を抱くときも人差し指を上げ、触れないようにしていた。握手のときも、両方の人差し指を離していた。
見ても得に怪我をしている様子はない。
日常の動作の一つだろうから気にすることではないのだろうけれど、どうも気になってしまう。
「コーヒーふたつ」
席に着くと、彼はメニュー表を指さしながら注文した。
その時は、何の違和感もなく人差し指を使っていた。
「あんた、美人だな」
組んだ手の上に顎を乗せて言う時も、人差し指は自身の手の甲に乗っている。しいていうならば、親指が離れていた。
「お待たせいたしました、コーヒーになります」
ティーカップを持つ時もいたって普通。
「おいおい砂糖入れすぎだろ」
私はブラックは飲めないのだ。
「あんた、ケーキとか好き?」
次また会う予定を断り、プライベートについての質問をなんとか躱し、子供時代の苦労話くらいはいいだろうと、会話をしながら時間が経ち、コーヒーが空になった。
「約束だからな。解放してやるよ」
意地の悪い笑みを見せた彼は思いのほか素直だった。
彼が人差し指と中指で会計票をつまむ前に私が取る。
「何、奢ってくれんの?」
上手く誤魔化せていると思っているのだろうか。
「未成年に奢ってもらうほどお金に困ってないからね」
「……バレてたんだ」
フードを深く被っているため顔は見えにくく、その高身長という見た目だけで最初こそ成人男性だと思っていたが、会話をしているうちに言葉の節々から幼さを感じることができた。
私が感じた年齢は小学生から中学生のようなものだが、さすがに小学生ということはないだろう。
しかし、言ってしまえば、彼は実年齢に伴わない幼い心を持っているように感じられた。
「これから何の用事?」
「プライベートなことなので言えません」
お店を出ると、彼は帰ろうともせず私の目の前に立ちはだかっていた。
「……今日は声をかけてくれてありがとう。お互い勉強頑張ろうね」
「ああ」
軽く手を振ると、向こうも同じように振り返してくれた。
腕時計を確認してみると、予定時間が差し迫っている。思ったより長居してしまったようだ。
「相澤先生に怒られる…!」
そう言って走り出したものの、内心わくわくしていた。
相澤先生と会うのは久しぶりだった。
私の大学が忙しいのと、先生も先生で新クラスの担任になることが決まり、何かと多忙の日々を送っていたのだ。
雄英の寮で暮らしていた頃が懐かしい。卒業したばかりの春休みは、よく雄英に遊びにいっていたっけ。それで国からの呼び出しを忘れていて遅刻しそうになったことがある。
あの時は国よりも相澤先生に酷く怒られた。
「あ、そうだ。マイク先生に協力してもらってビックリさせちゃおうかなぁ」
気づかれないように後ろからワッ!とか……は、流石に無理か。相澤先生、勘鋭いし。
「とりあえず遅刻は避けないと」
ドッキリの仕掛けを考えているうちに遅刻して相澤先生を怒らせたくもない。やっぱり久しぶりの再会は気持ちのいい状態で果たしたかった。
そうと決まれば近道をしよう。この辺の脇道に入れば大分ショートカットできるはずなんだけど……ああ、少し戻らなきゃ。
「わ…!?」
「!」
急に方向転換したせいで後ろから歩いてきた人に正面衝突してしまった。
「す、すみませ……え…?」
その人を見上げた時、悪寒が走った。
「……独り言が多いぜ、ロク」
白髪の隙間から見える燃えるような赤色と目が合った瞬間、私は個性を発動していた。
咄嗟のことで少ししか稼げなかったが、後をつけてきていたらしい、つい先刻一緒にお茶をした少年から20メートルほど先に瞬間移動できた。
少年の反応を見ることもせずに全速力で走る。
走りながら、思い出していた。
特徴のあるくせっ毛の白髪、赤い瞳、ひび割れた唇、手を使った個性持ち――。
「死柄木弔…!」
どうしてもっと早く気が付かなかったのだろう。気になる点はいくつもあったのに。
「!!」
右方向から男の子が!
そう思った時には遅かった。
「ぐっ!」
「どわッ?!」
死角から出てきた中学生らしい男の子に気付かず、派手にぶつかってしまった。
脳震盪が起きたようにめまいがする。
「だ、大丈夫ですか…!」
あれだけ強く衝突したはずなのに、男の子は何ともない様子で尻餅をついている私に手を差し出していた。
驚きつつも、その逞しい手を借りて立ち上がる。
「ごめんなさい…、あなたこそ大丈夫でしたか?」
「僕は全然……それより、何かあったんですか?」
「! そうだ…!」
言おうとして、言葉を飲み込んだ。
周囲を見渡す限り、いつも通りの平和な街並みだ。
どうやら死柄木は無差別に人を襲うわけではないらしい。つまり、目標は私のみ。この子を巻き込む必要はない。
「あの、大丈夫ですか?」
「! な、なんでもない!本当にごめんなさい!」
「あ、え、あの…!?」
ろくに謝罪もせずに走り出して、怪しまれただろうか。あの子には申し訳ないけれど、それはそれでいいだろう。とても優しそうな子だったから根に持って追いかけてくる様子もなさそうだったし。
そういえば、手のひらが少し擦り切れていた。せめて絆創膏だけでも落としていこう。
先の男の子の足元に絆創膏を落とすイメージをして、再び走ることに集中する。
角を曲がって公園を抜けると、人通りのない河川敷に出た。
後ろを振り返る。死柄木の姿はない。
うまく捲けたのだろうか。
とりあえず一息つく。
死柄木弔……私を殺す機会はいつでもあったはず。しかし、そうしなかったということは他に目的があったということだ。
単純に考えると、拘束。
何故?私の個性が"国家指定個性"だからと考えるのが妥当だけど…。
「………」
死柄木と会ったのは今日が初めてではない。
6年前、私はまだ幼い彼と瓦版屋くんの自宅で遭遇した。
突然現れた彼は家屋を破壊し、私を殺そうとしていた。
当時は私を殺そうとしていたのに今日、彼は私を殺さなかった。あの時と今の私の違いといえば、その存在の公表をしているか否かの違いだ。
やはり私の個性が関係しているに違いない。そして、きっと何かしら思いついたのだろう。
例えば、私たちの"平和の象徴"を誘き寄せるための策といったような―――
「ッ!」
あの時、赤い瞳と目が合った瞬間と同じような悪寒を感じ、飛び込むようにして前へ瞬間移動すると、直後にすぐ近くで轟音が響いた。
砕けたコンクリートの破片が体を打つ。
「!!」
見れば、空中にできた黒い靄の中から血管が浮き出た丸太のような腕が地面に突き刺さっている。
「チッ、今ので死んでたらどうするつもりだったんだよこの脳筋が」
その黒い腕を踏みしめるように靄の中から姿を現したのは、言わずもがな死柄木弔だった。
真っ黒な装いに赤のスニーカーが目をひく。
「まぁ、あれで死ぬくらいだったら無価値のカスってことになるからそれはそれでいっかァ」
「ッ……」
ゾッとした。
彼には良心というものがない。全てが悪意、その存在そのものが悪意でできている。
あの時感じた子供らしさは、無邪気さ故に蟻を踏みつぶし、バッタの足を引きちぎる、そんな残酷さだったのだ。
「壽命」
当然、私の本名は知っているらしい。
「あんたの個性、いいよなァ…羨ましいなァ……それ、俺にくれよ」
「!」
靄から出てきたのは6年前に見た"未完成の脳無"ではない。
「ッ!」
身体能力に長けたその身体は弾丸のように私目がけて突進してくる。
瞬間移動で躱すしかない。
しかし、飛べる回数は限られている。
「ハァ…ハァ…ッ」
今では、ほとんどの思考を微量のエネルギーで実現することができるようになった。
しかし、自分主体の思考や人の生命に関わる思考などはエネルギー消費が激しく、回数制限を設けているのだ。
今のところのエネルギーは朝食とコーヒー一杯。しかし、すでに2回、消費の激しい瞬間移動を行ってしまった。あとは、攻撃を躱す程度の移動ならば2回、逃げに賭けた移動は1回できるだろう。もちろん、瞬間移動を使ってしまえば他の思考は難しくなる。
逃げるのは簡単だ。でも、それが得策だろうか。
目の前にいるのは因縁の相手。捕捉できるなら捕捉したい。しかし、一人でできるだろうか。
私は、相澤先生と一緒に全ての始まりの日の先へ行くことを決めたその時から成長を続けた。一度個性を使っただけでヘロヘロになっていたあの時の私とは違う。
でも、慢心してはいけない。
この脳無はおそらく相澤先生と対峙して相澤先生を重傷に追いやった脳無だ。そんなものにプロになって数年の私が敵うはずもない。
やはりここは応援を呼ぼう。
そう決めてカバンに手を伸ばす、が、スマホが入ったカバンはどこにもなかった。
「え、鞄は…!」
あろうことか、鞄は脳無の足元にあった。瞬間移動するときに手を離してしまったのだ。
「あ…!」
これ見よがしに、その巨人の足で鞄を踏みつぶされる。埋没したそれを見れば、中身のお陀仏は明らかだった。
さあ、応援を呼ぶ術は無くなった。
「大人しく捕まるなら腕一本折るだけで許してやるよ」
「どっちにしろ無事では済まないってことか…」
「痛んだ方が思考に集中できなくなるだろ?」
「すごい、敵の鑑だね」
「だろ」
「やれ、脳無」