スクイーズ篇

□パーソナルスペース
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 蟬ヶ沢はガスコンロの火を見つめながら大きく溜め息を付いた。

 浮かれて自分のセーフティハウスに蝶を連れて来たはいいが、困ったことが起きた。
 着替えが殆んどないのだ。下着とシャツとジーンズが一通りあるが、一人分である。男性用の衣類。蝶に着せるものがないのだ。
 蟬ヶ沢は蝶がいるシャワー室の方へ視線を向ける。濡れた衣類は洗濯機に入れるように頼み、着替えを持ってくると言ったが、着せられそうなものがない。あるにはあるのだ。ただ、それだけを着せることに、かなり抵抗がある。
 ここで保管していたシャツを広げて、考える。肩幅は明らかに広く、着る分には困らないだろう。実際に着たら太ももくらいまでは隠れてくれるだろう。
「セミさーん、着てもいいものある?」
角から顔を出して蝶が聞いてきた。バスタオルを巻いているのだろうが、見えているのが肩から上なので何も着ていないように見えて心臓に悪い。更に、これから心臓に悪いものを着せることになるのだが、仕方ない。
「い、いえね。あるにはあるのだけど」
 腹を括って、シャツを渡す。
 蝶は受け取とり、シャツを広げ、固まった。三秒ほど固まると顔をひきつらせ、Yシャツと蟬ヶ沢を交互に見て、
「新手のプレイ?」
と本気で引いていた。彼女の反応は予想出来たものの、実際その反応を見るのは心苦しい。
「これしかないのよ。ここ、定期的に掃除はしているけど、泊まることはないから衣類に関しては本当に忘れていて…………見ないし、出来るだけ見ないから、見ないわよ。見ないからね。そのままだと風邪を引くから、着て頂戴」
既に蟬ヶ沢の首は限界まで逆を向かせている。
 蝶はしょうがないと言いたげに溜め息を付く。
「セミさんはちゃんと着れる服があるの?」
「安心して、捕まるような恰好はしないから」
「ならいいや」
そう言うと蝶は脱衣所に着替えに戻った。
 後ろからタオルをかけられる。
 なによ、と振り向いたことを後悔することになる。
 蟬ヶ沢はとっさに視線を逸らした。気まずい。時間がかかってもいいから今の家に連れて行けば良かった。
 首までボタンを止めて首はよく見える。余った袖をだらりと下げている。
 シャツの下はほんのり赤みが増した足がさらけ出されている。
 一瞬見ただけではあったが、瞼にさきほど見た素足が焼き付いて目から離れることが出来ない。
(心臓に悪いわ)
首を振ってなんとか忘れようとするが、どうしても完全に見ないようにするのは厳しい。
 見ない為のせめてもの抵抗で掛けられたタオルで更に視界を狭くする。
「見るの禁止だからね」
 声だけでも彼女がにやりと笑ったのが分かった。
 蝶はタオルをしたままの蟬ヶ沢をシャワー室に押し込む。着替えはどうしようかと思ったが、すぐに着替えを見つけて渡してきた。
 沸騰したお湯は蝶が引き継いでポットに入れてくれると言うので、お言葉に甘えてシャワーに入ることにした。
 シャワーから上がると、蝶は寝室で髪の毛を乾かしていた。
 サイドテーブルにはコップとポットが置かれ、来る途中で買ってきた茶菓子も置いている。
 髪の毛を乾かし終えたのを見計らって珈琲を出したが、蝶は蟬ヶ沢の髪の毛も乾かしだしたので終えた頃には冷えてしまった。
 ベッドに座り、淹れなおした珈琲も飲んで明日はどうしようかと相談する。
 突如、部屋の明かりが消える。蟬ヶ沢はとっさに蝶を引き寄せる。
 部屋を白く染める。蝶の顔が強ばるのが見えた。
 一瞬敵の襲撃が来たのかと思ったが、ただの雷だったようだ。警戒の為、引き寄せたままにした。
 部屋は再び暗くなり、互いの顔は見えなくなる。蝶にとっては見えない。強化された目を持つ蟬ヶ沢には緊張している蝶の顔が見えるのだ。
 蝶の顔には雷に対して怖がっている様子はない。蟬ヶ沢が引き寄せていなければ窓に張り付いて見に行っただろう。
「部屋も暗くなっちゃ何も出来ないわね。寝ましょう。蝶はそこの部屋のベッドを使って。私はそこで横になるから」
蟬ヶ沢はベッドのすぐ横に横たわり、寝る準備をする。バスタオルを巻いて枕代わりに使えは寝るのには支障はない。
「セミさん待って!そこに寝たんじゃ起きたら腰とか痛くなるよ」
「カーペットの上だし、そこそこ柔らかいわよ」
「でも」
部屋は再び雷により白くなり、部屋が暗くなると落雷の感触が伝わった。近くで落ちたのだ。電気は復旧するのはいつになるのやら。ふと、雷が落ちた衝撃とは違う感触があることに気付く。
 裾を摘ままれている。勿論、摘まんだのは蝶である。
 慌てて降りたせいだろう。四つん這いの姿勢でシャツがずれて鎖骨より下が見えていることに気づいていない。シャツ の間から小さくはないふくらみも見えて、今すぐ逃げ出したい。
 蝶は蟬ヶ沢を引っ張り、再び隣に座らせる。裾はまだ摘まんでいる。

「いやだから、雷ってたぶん怖いじゃない」
「たぶん?」
思わず突っ込んでしまった。
「こ・わ・い・で・す、ねっ!」
「そ、そうね」
「だから……まあ、その」
 蝶が何を言わんとしているのかは分かった。しかし、嘘が下手過ぎる。雷が怖いから一緒に寝てくれてと少女漫画のようなことでも言うつもりなのか。
「よし」
 何を思ったのか、蝶は蟬ヶ沢を押し倒した。本来ならば押し倒されることはないが、完全に気が緩んでいた。
 先程のシャツの間も見えるわ、両手は押さえつけられるわ、下手な任務よりも辛い。
 なんとか両手は解放してもらえたが、何をすればどいてもらえるか、これ以上近づかれては困るので右手で壁を作ってみる。

「ま、まままま、待ちなさい。蝶、落ち着いて。ダメよ!その、ダメ!」
「セミさんは左、私は右側で寝る。それでいいじゃない」
「え」
顔の温度が二度は下がった気がした。期待していた訳では無いが、何故か残念に思ってしまった。
「二人してこうもベッドの譲り合いしていたらいつまでも寝れないでしょ。一緒に寝るって訳じゃなくて、分けて寝ようよ」
「それはそうだけど……、余計に寝れなくないかしら。ほら、私の体格を考えると寝る場所が狭いわ。だから」
「このベッド結構広いけど」
「寝相が悪いの」
「押しつぶしてもいいよ」
「押しつぶすよりも別のことをしそうで怖いのよ」
「多少のセクハラは目を瞑るから安心して」
「違うことだし、何よりしません!」
「してもいいから。もう私は寝る!ほら、セミさんちょっとどいて」
と蟬ヶ沢の右側に寝転がり、左側に押し寄せるとすぐさま寝息を立てた。
 蟬ヶ沢は小さく溜め息を付いて、布団をやや蝶側に多くかかるようにして寝た。
 外の悪天候よりも騒がしいものが静かになり、聞こえるのは呼吸音だけとなる。
 背中同士がぴったりと付けられているので呼吸音と共に背中の動きも伝わる 。
 眠気が来ないまま小一時間は過ぎたことは腕時計から確認出来た。
 彼女が寝てる間に床で寝てしまおうかと、起き上がる。
 隣で寝ている彼女は熟睡しているらしく、起きる気配はない。このまま床に移動しても気付かれないだろう。
 動こうとした時、寝顔が見えた。毎回のことだが、安心しきっている。
 本当に蟬ヶ沢に対しては良い意味でも悪い意味でも警戒心がない。
 彼女のパーソナルスペースは狭すぎる。特に自分に対しては妙な誤解をされる近さだ。
 この距離をなんと汲み取れば良いのか。
 結局、床で寝ることは止めて、このまま寝ることにした。背中も元の通り、ぴったりと付ける。

 雨音で心臓の音が聞こえませんようにと密かに願った。
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